1.札所巡りの始まり
 健康のためと妻の発案で平成19年8月から11月に秩父札所三十四ヶ所を廻った。最初の秩父は真夏の8月で、汗をかきながらなんでこんなと思いつつ歩いた。ただ、次にひかれるように、平成20年3月から8月に坂東札所三十三ヶ所、さらに平成20年3月から平成22年6月で西国札所三十三ヶ所を回った。これで100観音満願である。行く度にどんどんはまっていく自分がいた。最初の秩父は一筆書きになっていなかったので、四国に行く前にと、再度秩父を一筆書きで廻りなおした。こうして、どんどん四国遍路に憧れていった。

 そもそも何故札所巡りを始めたのだろうか。元々信心があったわけではない。健康のために歩いてみるか、くらいだったように思う。まだ、樹木にも興味を持っていなかった頃である。しかし、一度まわり始めると思った以上に達成感がある。目的を持って歩くからだろうと思う。

 一回目の秩父と坂東の時はカメラを持っていなかったので納経帳は残っているが記録がないので割愛する。ともあれ、札所巡りを始めたわけである。札所の巡り方に、順打ち、通し打ちがある。順打ちは札所の順番通り回ることで、素直であるが四国を除き順路が非効率となることがある。これは適宜入れ替えても致し方ないことかと思う。通し打ちは日を置かず連続して回ることであるが、地理的なことを考えるどうしても何回かに分けて回らざるを得ない。また、昔はすべて歩きとおしたわけだが、あちらこちらに散在する寺の場合、全歩きは並大抵ではない。競争でもなく規則があるわけでもない。要は自分たちのやり方で回ればいいのであると思う。

2.四国遍路旅 
 秩父、坂東、西国の100観音巡りにはそれほどお遍路という言葉が現実的には感じなかったが、やはり四国は距離といい、発祥といい遍路旅の言葉が似合う。そんなわけでいよいよ四国八十八ヶ所の遍路旅へとなるが、全歩き1,200kmは容易ではない。通し打ちは時間的な余裕がないし、体力的にも自信がなかったので区切り打ちとし、まずは徳島県だけの一国参りから始めることとした。正直これで駄目ならここまでとの気持ちもあった。
 2011年、妻の母が1月亡くなり、3月11日、東日本で巨大な地震が発生、また、これに続く津波で未曾有の被害が出た。そんな供養の気持ちもあって、いよいよ4月27日から四国巡礼を始めた。四国遍路道には何ヶ所か遍路ころがしと呼ばれる難所がある。第一回目の焼山寺の遍路ころがしはまあまあの余裕で乗り越えたが、一週間とはいえ数日目に疲労の最初の波が来る。第二十番鶴林寺、第二十一番太龍寺の二山を越える道は厳しかった。金綱杖は邪魔になるかと思い持たなかったが、山越えで自由に使っていい杖が備えられており、杖のありがたさを知った。
 第二回目は2011年9月15日から。前回の歩き止め第二十三番薬王寺から。まだ残暑が厳しい時期だし、台風も心配である。初日から75km先の第二十四番最御崎寺への二泊三日から始まる厳しい高知入りである。室戸へ向かう道では、強い雨に襲われ全身びっしょりの道を行った。
 昨年春は4月27日から歩き始めたが、随分暑かったこともあり、今年の春は少し早めて3月16日、高知から歩き遍路を継続し、3回目は徳島からちょうど反対にある足摺岬まで行く。ハイライトは第三十七番から第三十八番の最長期間で、この間2泊3日掛りの旅である。何十年振りかの足摺岬へ行くので、田宮虎彦の「足摺岬」を携帯し再読した。
 秋も同様昨年の雨に懲りて11月15日、台風シーズンを避けて出立し、高知城へ寄ってから宿毛へ行った。春に高知から宿毛まで7日も歩いたのに電車だとわずか2時間。今回の旅では途中アメリカ人の尼さんと同行した。外人も何人もこの四国遍路旅をしている。
 巡ってきた3度目の春は、松山から予讃線のみの駅まで。事前に柳原和子の「がん患者学」を読んだこともあり、また、数人の友人が癌を患っていることもあり、随分がんについて考えさせられた。寺ごとに般若心経を唱えるとともに友人の快癒を祈った。第六十六番雲辺寺はもっとも高所にあり、山登りに苦労した。
 いよいよ最後の道のり。第八十八番の手前にある遍路交流センターでは歩き遍路記念の任命書を頂き、最後の山登りの女体山を超え、第八十八番大久保寺に到着。長かった遍路旅を振り返る。翌日は高野山へ詣でて、紅葉の高野山を堪能した。
 友人が何故歩いて回るかと聞くが、まだ答えは見つかっていない。ただ、黙々と歩いた旅だった。