四国札所巡り第六回(8日目)

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区切り打ち六回目、予讃線みの駅、第七十一番弥谷寺の続きから。今までの長い道のりを越え、最後の一国香川県(讃岐)涅槃の道場。四国遍路もいよいよ結願である。

13.11.07大門平成25年11月7日(木曜日) 天候 晴れ
昨晩雨が降ったようで一乗院の紅葉もアスファルトも濡れていた。今朝は爽やかな秋の日で、今回の旅は結構天候に恵まれたといってよい。昨日見ることができなかった大門、根本大堂、女人堂など紅葉とともに散策し、10時過ぎのケーブルカーで帰途に着いた。これで四国遍路八十八ヶ所の全行程が終了した。我々には一週間単位の6回区切り打ちがちょうど良かったようだ。四国病に罹るか否かはこれからのこととして、通し打ちには及ばないが、まずは良く歩いたと思いたい。
(総歩程)13,273歩、7.9km、2時間7分

13.11.07根本大塔

13.11.07御影堂

13.11.07准胝堂

13.11.07鐘楼

13.11.07紅葉

13.11.07紅葉

13.11.07黄葉

13.11.07女人堂

 四国歩き遍路に出るというと、何かあったのとか、どういう心境の変化とかとやかく言う方もいる。確かに苦しみ、悩んで四国遍路をする人もいるし、信仰上の敬虔な気持ちをもって廻る人もいる。巡礼しながら歩くこと自体を楽しんでいる人もいる。それでは歩き通すと何か得られるのかというと、むしろ遍路旅は何かを捨てる旅とも言われる。誰も歩き遍路の理由は問わない。とにかく歩き遍路はかなり個人的で、その理由も人それぞれであり、人様々である。
 歩き遍路は贅沢な、つまり一番金のかかる旅の方法だが、できるならば歩けるうちに是非一度歩いてみたいと思った。四国遍路は三コウ(信仰、観光、健康)と言われるが、元々信仰心がある訳ではない。観光というには歩き遍路はコストパフォーマンス的には時間と費用が掛かり過ぎ。これだけあればゆうに海外旅行2回は行ける。健康のためと言っても短期決戦的な歩きではそれほど健康に効果があるとは思えない。1,200kmを歩いて廻ってみることに対するチャレンジ精神と達成感かも知れない。他人は往々にしてその理由を求めるが、何があるかはその人個人の問題で、歩く理由さえ然程必要とは思わない。私にとっては、人生の一つの区切りだったと思う。再び歩くことがあるかもしれないが、そのときは今度は一人で通し打ちで、もう少しペースを落として歩いてみたいと思う。

栄荘のお接待のお弁当にはこんな書き物が入っている。

『丁度よい』
 お前はお前でちょうどよい
 顔も体も名前も姓もお前にそれは丁度よい
 貧も富も親も子も息子の嫁もその孫もそれはお前に丁度よい
 幸も不幸もよろこびも悲しみさえ丁度よい
 歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもないお前にとって丁度よい
 地獄に行こうと極楽にいこうといったところが丁度よい
 うぬぼれる要もなく卑下する要もなく上もなければ下もない
 死ぬ月日さえも丁度よい

<追記>出典が分かった。作者は石川・大谷派常讃寺の坊守・藤場美津路。
元の詩にあった最後の五行は省略され広まったそうだ。その五行は

 仏さまと二人連れの人生 
 丁度よくないはずがない
 丁度よいのだと聞こえた時 
 憶念の信が生まれます         
 南無阿弥陀仏


である。また、この詩の前にこんな詩も書いている。

 『我執のつぶやき』
 親ほどうっとうしい者はいない 兄弟ほどめんどうな者はいない

  子供ほどやっかいな者はいない
 夫ほど平凡で薄情な者はいない 姑ほど邪魔なものはいない
    だから離れ 軽蔑し 嫌い 反発した 
 先生と宗教家ほど 偽善的なものはいない だから信じることがなかった 
 大嫌いな者は自分自身 愛そうとして愛しきれず 信じようとして信じきれず 
    ただ一人 孤独の淵を のたうち回る
 こんな人間は生きている価値がないと思った

    それは真っ暗い地獄をはいずり回っている気持ちだった
 どうにでもなれ なるようになれ 斜に構えたやけくそ人生 

    死ぬに死なれず 生きるに生きられず