小説の木々9年12月

 どうしてあれほど傲慢に、続いていく明日を信じられたのだろう。時間なんかたっぷりあると思っていた。互いの間に流れる時を、それこそ湯水のように無駄遣いしていた。だからこそあんなに邪険にできたのだ。何の前触れも無く突然それが断ち切られるときが来るなんて、本当に想像すらしていなかった。(「遥かなる水の音」村山由佳)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

長い腕(川崎草志)

株式会社角川書店 角川文庫 第13刷 09年11月5日発行/09年12月読了

 「早瀬は、周囲を山に囲まれ、北側だけが瀬戸内海に向かって開けている。なだらかに海に向かう傾斜に、いくつもの集落が点在している。斜面の至る所には、江戸時代から続く森が、ゆっくり降りる朝霧の中で、黒く、島のように見えた」ここでは、何かが狂っている、誰かが狂っている。「見覚えのある木立が見えてきた。屋敷の裏庭に植えられた杉の木だった。やがて、前庭に植えられた松や櫟の木、高い土塀が順番に姿を見せた」なんでもないように見えるわずかな歪み、このストレスが次第に人の心を蝕んでいく。

真夜中の五分前side-A,B(本多孝好)

株式会社新潮社 新潮文庫 初版 07年7月1日発行/09年12月読了

 「わずか四時間の移動で、空気は温度だけでなくその色まで変えたようだった。紅葉を終えたはるか遠くの山の輪郭が青い空にくっきりと際立っていた」瑞穂に会いに来るのに八年の月日が経過した。「僕は枕もとの目覚まし時計に目をやった。十一時五十五分。だったら世界はもう明日を迎えているだろう。世界から取り残された五分が静かに僕を包んでいた」時計を五分遅らせるのはその瑞穂がした。一日の1/288の時間だけ、じっと身を潜め静かに思う。

未踏峰(笹本稜平)★★☆☆☆

祥伝社 初版第1刷 09年11月5日発行/09年12月読了

 「樹林のなかをひたすら下ると、目の前に楕円形の広々とした雪原が現れた。コメツガやシラビソの黒々とした原生林に囲まれた雪原は、その半分ほどまで稜線越しの西陽が射し込んで、かすかに黄金色を帯びている」青春物で、少なくともヒマラヤ標高6,720mの山岳小説ではない。心に傷を背負った四人がそれぞれにヒマラヤの初登頂に向かって行く。パウロ氏の死もそうだし、山で会う外人との会話も些か安直過ぎる上にアフォリズムがふんだん。「この日の朝焼けは凄絶だった。頭上では気圧の谷の先駆けの高層雲が天空の火災のように燃え上がり、赤黒く泡立つ雲海はさながら溶岩のようで、雲上に浮かぶ峰々は灼熱した金属のように不気味な赤みを帯びている」天気は間違いなく悪くなっている、ところがこれがどうして奇跡の天候回復になるのか。

せんさく(永嶋恵美)★★★☆☆

株式会社幻冬社 初版 09年10月10日発行/09年12月読了

 15歳の中学生遼介、29歳の主婦典子が、ネットのオフ会で会い帰宅途中の高崎から突然家出状態で逃亡生活を始める。悪いことの逆スパイラル、悪いほうへ悪いほうへ転がり落ちていく。やっと由香里は気がついた。「なんだ・・・幸せだったじゃない。私、ちゃんと幸せだったんだ。なのにその生活の中にいる間はそう思わなかった。何かが違う、いつもそう感じていた。私がほしかったのものは、もっと別のものだったような気がする、と」

ほかならぬ人へ(白石一文)★★★☆☆

祥伝社 初版第1刷 09年11月5日発行/09年12月読了

 ある小説家がこんなことを書いていた。「この世の中になくてはならないものが二つある。一つは正義。そしてもう一つはドラマだ」まだ37歳だった。自分はもう二度とあの匂いを嗅ぐことはできない。
 「空を見上げた。すぐそばに一本、大きな桜の木があって、満開の桜がみはるを見下ろしている。その花の向うによく晴れた夜空があった。顔を上に向けただけでは月のありかは分からない。なまぬるい夜風がうっすらと吹いていた」

ゼロの焦点(松本清張)★★★★☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第120刷 09年11月10日発行/09年12月読了

 「その明るい陽は、このきれいな家の白い壁にも、庭の植え込みの木にもおりていた。棕櫚があり、ヒマラヤ杉があり、梅があり、籬(マガキ)には、枯れた薔薇の蔓がはっている。小さな葉の上に、冬の光が弱々しくたまっていた」新婚旅行から戻って十日目金沢に出張した夫が失踪した。禎子は夫が本に挟んであった二枚の家の写真の一つをここで見つける。もう一枚は田沼久子が住んでいた。久子が登場する頃には大体その動機と犯人像が見えてくるが、それはそれとして、一人の女性が警察が何もできずにいる中で徐々に核心に迫って行くのは少々できすぎか。「とどろく海辺の妻の墓」が結末を予感させる。

十字架(重松清)★★★★☆

株式会社講談社 初版第1刷 09年12月14日発行/09年12月読了

 中学二年でその命を絶った俊介。その周りの人々は重い十字架を背負って生きてきた。忘れれば済むことだが忘れなれなかった。あの人は忘れないでくれと言った。「しばらく土手道を走って、自転車を停めた。久しぶりにみるフジシュンの家の庭は、柿の木の梢にいくつか残った実が夕暮れと同じ色に熟していた」二十年後あの人はその柿の木を伐った。「でもユウちゃん、親友だよ」とフジシュンはいう。「森の墓地」の十字架は丘の上で静かに待っている。

さまよう刃(東野圭吾)★★★★☆

株式会社角川書店 第20刷 09年10月5日発行/09年12月読了

 初めての東野圭吾作品。理屈じゃないですね、惹きこまれます。「警察とは何だ。法律を犯した人間を捕まえているだけだ。警察は市民を守っているわけじゃない。警察が守ろうとしているのは法律のほうだ」長峰は再び狙いを定めた。絵摩、やるぞ。そして彼は引き金を。

この胸に深々と突き刺さる矢を抜け(白石一文)★★★★☆

株式会社講談社 第3刷 09年6月1日発行/09年12月読了

 この作家の題名は得てして長い。政治、宗教、セックス、著名人の格言ありで、物語のようなそうでないような。「山門までの広い石畳の道はいつもと変わらず塵一つないが、さすがに道際の石灯籠やツツジの植え込みにはこんもりと雪が積もったままだ。整然と並ぶ墓石の向うには大きな松が植わり、その松に寄り添う形でこれも大きな桜があった。春に見事な花を咲かせる桜もいまは素っ裸だ」たった三ヶ月で亡くなった墓の下のユキヒコに語りかける。「夜が明けて朝日が昇って来たんです。ふと気づいたら僕の座っていた滑り台の隣に大きな桜が一本植わっていて、一晩中いたのにその桜にはまったく見覚えがなくて、朝の光を受けた満開の桜が突然出現したようであまりの美しさに息を呑むほどでした。そして、僕はようやく自分がどうかしていたんだって分かったんです」09年1月の発行であるがそのとき「自民党もうおしまいですよ。といっても民主党が政権を握ったところで同じです」と言っている。癌が再発したとき一緒に歩くのは妻のミオではなかった。久しぶりにユキヒコの声が聞こえる。「お父さん、その女はいい人だよ」と。この胸に深々と突き刺さる矢とは何か?

重力ピエロ(伊坂幸太郎)★★★☆☆

株式会社新潮社 第34刷 09年5月25日発行/09年12月読了

今年の読み収め本で、前半はかなり退屈。数奇な運命で結ばれた家族、兄弟。頭文字が遺伝子記号であることは早々に気が付く。弟の春と兄の泉水の関係があたかも当然のように信じられる思いとなり、堅くほのぼのとして結ばれている。「本当に深刻なことは軽く伝えるべきだ」