小説の木々17年01月

藤井寺の本堂のそばにある藤棚を見て、香代子は大きく息を吐いた。感嘆と無念が入り交じったような、長い溜め息だった。「もう少し早い時期に来たかったわね。満開の藤は見事だったでしょうね」寺の名の由来にもなっている藤棚は、すでに花の時期を過ぎ、葉だけを茂らせていた。雨に濡れた葉も目に鮮やか美しいが、香代子の言うとおり、たくさんの紫の花で彩られる境内は、多くの人の目を惹きつけたであろうと思う。咲き乱れる藤の花を見てみたかったと思う傍ら、開花の時期でなくてよかったとも思う。藤棚を見ているうちに、古い記憶が蘇ったからだ。(「慈雨」柚月裕子)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

となりのセレブたち(篠田節子)★★★☆☆

株式会社新潮社 第1刷 15年09月20日発行/17年01月04日読了

題名は中身と合ってない。クレージエッグプラントを食べて潜在的な欲望の夢をみて気付き奥様達の「トマトマジック」、猫嫌いのキャリアウーマンが家に自分の居場所がなくなり家を出るが猫に好かれている「蒼猫のいる家」、くねくねしたチューブ状の原始的な脊椎動物が人を癒す「ヒーラー」、老後と真の尊厳死を家庭と社会に実現した筈の「人格再編」、犬に飼いならされていく「クラウディア」、それぞれ皮肉と斜め目線で見た人間像。これらの中でおもしろかったのは「人格再編」。親に立派なまま年老いられたら次世代は成長することができない。子供世代は、自らの親の壊れていく人格に衝撃を受けながら、緩慢な死をそこに見る。母が認知症になり子供帰りしていく姿をみるたび思い出しそうである。

秘密(東野圭吾) ★★★★☆

株式会社文藝春秋社 文春文庫 第54刷 12年04月05日発行/17年01月20日読了

妻と娘がスキーバスが転落し死亡する。しかし、娘の身体のなかは妻と入れ替わっていた。ファンタジーミステリーだが、性の問題はシリアスである。最後には娘の意識が戻って、バス事故を起こした息子と結婚していくが、娘は知らないはずの二人の秘密を知っていた。分かっていながらも、この先二人が生きていくための決断する慟哭が切ない。