小説の木々1(小説に出てくる木々)

小説にも木々は、もちろん単に木とか林、森で出てくる。しかし「XXXの木」として出てくるもので有名なのは山本周五郎の「樅(モミ)の木は残った」であろうか。仙台藩のお家騒動の描いたこの小説は、1970年NHK大河ドラマ(主演は平幹二郎)で上演された。
これに限らず、小説で木を森や林でなく固有の樹木名を使うと、読み終わってみると、やはりその木でなくてはならない気がするから不思議である。それなりに木は小説の中でも重要な役割を果たすのであろうか。
 2009年はハイペースな読書スピードで明けた。正月休みで、「樅の木は残った(上巻)」「樅の木は残った(中巻)」「樅の木は残った(下巻)」(以上山本周五郎)を読み終え、続けて「クライマーズ・ハイ」(横山秀夫)、「家族の言い訳」(森浩美)、そして誕生日のプレゼントで頂いた「ダブル・ファンタジー」(村山由佳)、12日までに6冊、ほとんど濫読気味である。ご存知の通りダブル・ファンタジーはジョン・レノンとオノヨウコのアルバム名(ジョン・レノンの遺作)、昨年末の「森に眠る魚」(角田光代)に引き続き、木々を拾ってみる。

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

樅の木は残った(山本周五郎)

新潮社 新潮文庫 上巻第8刷 平成18年9月20日/中巻第9刷 平成19年10月10日/下巻第9刷 平成19年10月10日/09.01読了

  「宇乃はそこで立ち停って、昏くなりはじめた庭のかなたを見た。そこに樅の木があった。彼女の眼は鮮苔の付いた石燈籠も、境の土塀も見ず、まっすぐその樅の木を見た。九年まえに見たときと、さして違ったようには思えなかった。幹も太くなり丈も伸びたが、他の木のようには育たないのであろうか。宇乃はそっと、何かをおどろかせまいとするように、忍びやかにそこへ座った。」
  「『私はこの木が好きだ』初めて会ったとき、甲斐はその木を宇乃に見せて云った。『この木を大事にしておくれ』そのときの甲斐の、やわらかな声や、白い歯の覗くやさしそうな顔が、いまでも記憶に深く残っている。そうだ。その次にやはりここで、この廊下で甲斐と自分はあの樅の木を見た。そのときはいまのように雪が降っていて、自分はあの方に抱きついていた。」
  それまで原田甲斐を極悪人としていた説を、山本周五郎は藩のために一切の罪を自らが被り死んでいく正義の人として扱った。ここは原田甲斐を偲び、原田甲斐が仙台からもってきて植えた樅の木を宇乃が見る最後の場面である。孤高の武士、ここはやはり北国の針葉樹であろう。

静かな木(藤沢周平)


   「福泉寺のは、闇に沈みこもうとしている町の上にまだすくっと立っていた。落葉の季節は終わりかけて、山でも野でも木木は残る葉を振り落とそうとしていた。福泉寺のも、この間吹いた西風であらかた葉を落としたとみえて、空にのび上がって見える幹もこまかな枝もすがすがしい裸である。その木に残る夕映えがさしかけていた。遠い西空からとどくかすかな赤味をとどめて、は静かに立っていた。『あのような最期をむかえられればいい』ふと、孫左衛門はそう思った」
 「福泉寺のひろい境内に立って、布施孫左衛門はを見上げていた。青葉に覆われた老木は、春の日を浴びて静かに立っている。『これも、わるくない』と思いながら、孫左衛門は青葉のを飽かずに眺めている」
 「『生きていれば、よいこともある』孫左衛門はごく平凡なことを思った。軽い風が吹き通り、青葉のはわずかに梢をゆすった」

 これはもう文字通りでしか表現できない、ならではの場面である。

ポプラの秋(湯本香樹美)


千秋がストレスから小学校に行けず自宅で療養したとき、「清々しさ、というものを生まれて初めて意識に刻んだのは、あの時だったと思う。雨上がりのひんやりとした秋の空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。そしてあたりが明るく金色に輝いているのは、ポプラの木のせいだということに気がついた。私はしばらくの間、寒いのも忘れて、澄みきった空に伸びるその大きな木を見つめていた。透明な光が、黄色く色づいたポプラに降り注いでいる。いつの間に、こんなに色が変わっちゃったんだろう。夏の間、あんなに毎日毎日この木を見ていたのに、一体私はそのあと何をしていたんだろう」サラサラと風にそよぐ葉、さわやかさを胸いっぱいに吸い込む千秋。ここにポプラをおいた作者、ここはポプラらしさが目に浮かぶ場面である。


 「季節外れの姫林檎が赤くてちいさな、やけに乾いた実をさらして、夏の夜風にいまにも落ちそう揺れてて、だからあたしはそれが姫林檎の木なんだと知っていた。もうおばあさんだったのかもしれない。やたら静かな木だった。長い時間をかけて失ったものを反芻しながら、この世から消えていく途中なのとでもいった按配の。あたしはその木が好きだった」
 「乾いた実が。まだ女なのよと囁くようにちいさな赤いいろを燃やしている木にもたれて、枝に引っかけて干した下着とシャツが乾くのをじっと待っていた」
 姫林檎をみる17歳の駒子の出口のない高校生活を写す場面である。

漆の実のみのる国(藤沢周平)


 「漆の実は、秋になって成熟すれば実を穫って蝋にし、商品にすると聞き、熟すれば漆は枝先で成長し、いよいよ稔れば木木(藤沢周平は木々とは書かない)の実が触れ合って枝頭でからからと音を立てるだろう、そしてその秋の山野はその音に満たされるだろうと思っていたのだ
 「鷹山は微笑した。若かった己をふり返ったのである。漆の実が、実際は枝頭につく総(フサ)のようなもの、こまかな実に過ぎないのを見たおどろきがその中に含まれていた」
 漆の実が藩の窮乏を救うだろうと聞いて心が躍ったときの鷹山の期待をあらわしたカラカラである。実際は九州を中心に櫨(ハゼ)から採る蝋の方が品質がよく計算通りにはいかない淡い苦さのようなものである。

森に眠る魚(角田光代)


 「いったいいつからこんなことになってしまったのか、テーブルの一点を見つめ、彼女は思いだそうとする。昨日のこと、一昨日のこと、その前の日のことを、順繰りに思い返していく。何かが狂い始めたその発端を、この暗い森の入り口を、生い茂る雑草をかき分けるようにして探す。
 「しかし彼女は、たった今歩いてきた大通りを引き返しているような気がしない。背を向けたばかりの、葉の生い茂る木々のなかへと進んでいるような錯覚を味わう。どうしてだろう、引き返しているのに、進んでいる気がしない。」
 「ひときわ背の高い杉の木の影に包まれるようにして、見知った子どもがしゃがみこんでいる。彼女は息を呑む。」
 小学校受験を前にした母親たちがいつの間にか暗い森の中をさまよう様な雰囲気をかもし出す。角田光代の最近の本は「おやすみ、怖い夢を見ないように」もそうだったが、恐ろしい結末が見えてきそうでページをめくるのに少々怖いものがある。

ダブル・ファンタジー(村山由佳)


 帯には「読者騒然、週刊文春史上最強の官能の物語」とあるが、ここでは書評をするつもりはない。奈津は3年前に東京から埼玉に移り住んだ。「東京から疲れ果てて戻り、駅のホームに降りたつと、奈津は必ず、電車が出てゆくまで立ち止まって待ち、やがて眼下にひらける見慣れた風景に深呼吸した。見渡せば、遠くに山々が薄青くかすんでいる。隣町との境界を、幅広の川がゆったりと流れてゆく。直線ばかりで切り取られた東京の空と違って、田舎の空は、まるく、やさしい」物語が始まる前の静けさの中での風景描写場面である。
 「ぽっかりと広がる六百坪の長方形の畑は、隣家の庭と道路に面した二辺をそれぞれコウヤマキとカナメモチの垣根に囲まれている」「埼玉は思いのほか冬が寒く、柑橘類はあまりうまく育たなかったが、その他の果樹はここ一年ほどでぐんと大きくなってきた。リンゴや洋梨、カリンにプラム」小説でこうした具体的な樹木名までは出るのは珍しい。同じ県人としては親近感が湧く。
 「ね、知っている?草木染でね、桜の花びらを集めて染めても、灰色になっちゃうんだって。でも、今ごろの、咲く前の枝を伐って染めると、ほんのり桜色にそまるんだって」このフレーズは読んだことがある。村山由佳の「野生の風」のなかで、「桜も梅もそうなのだが、花そのままの色を花びらから染めようとしても、決して染まりはしない。まだ雪のちらつく二月枝を煮出したたっぷりの液にひたすと、糸は茶でもなくも緑でもなしにほんのりと匂い立つ切ないばかりの桜色に染まった」 おそらく作者はこのフレーズが好きなんだろうと思う。
 「どこか懐かしい橙色の灯が、地面を埋めつくすようにきらめき、ふるえながら瞬いている。だが自分が欲しいのはあの灯りのひとつではない。どこまでも自由であるとは、こんなにもさびしいことだったのか」まるで奈津が暗い森の中を一人彷徨っているような読後感であった。

遠別少年(坂川栄治)


 机の横の本棚を何気なく見ていたら目に留まった。数年前千歳空港で列車を待つ間に買った北海道絡みの本である。
 「雪原にすくっと立つ白樺やエゾ松の姿は、根を下にした木が空から落ちてきてそのままの姿で真っ直ぐに雪に突き刺さったように見えた。白く輝く雪の上には木々の細い枝が、静脈を張り巡らせたように影を作っていた。そしてその上には、兎や狐が餌を探してウロウロした小さな足跡が、点々と遠くまで延びて、どこかへ消えていた。」寒々とした北国の風景にやはり針葉樹である。
 「そんな日は、空気がいつもの何倍も張りつめて冷たく乾ききるので、晴れ上がった青い空も、枝に雪を抱えた木々も、歩く人の姿も、すべてのものが透明に、そして止まっているように感じた。無風状態での澄み切った空気は、レンズのようになり、遠くのものの隅々までもがくっきりと見えた。その感じを音にすると、ピーンとはじいたピアノの一番高い音が、冷たく純度の高い透明な空間を、矢のように突き抜けて、どこまでもどこまでも飛んでいくイメージがあった。」 本当に寒そうで、ブルッと身が引き締まる思いである。
 北海道の最北端の稚内から日本海を少し降りた「遠く分かれる」と書く遠別での少年時代、戻りたくない、戻りたい、戻れない、思い出したくない、忘れたくない、忘れていく、人がそれぞれにもつ思いなんでしょうね。

時雨みち/山桜(藤沢周平)


 昨年封切られた田中麗奈、東山紀之の映画。この原作は藤沢周平「時雨みち」(新潮文庫)の中のたった20ページの短編「山桜」である。派手な映画ではないがしみじみとくるいい映画だった。そもそもたった20ページを短編を、1時間半もの映画にすること自体難しいはず、かといって、原作以上のものを挿入するのではなく、はしょるでもなく、原作に忠実で、たんたんと緩やかに時間が流れていく。
 「花弁のうすい山桜だったが、その下に立つと、薄紅いろの花が一面に頭上を覆って、別世界に入ったようだった。花はようやく三分咲きほどで、まだつぼみの方が多かった。」 野江が手塚弥一郎と出会う場面である。弥一郎はこう言った。「いまは、おしあわせでござろうな?」
 弥一郎は悪政を欲しいままにする組頭の諏訪を城中で切る。野江は去年弥一郎に手折ってもらった山桜を通りかかった農夫に折ってもらい、一人弥一郎の帰りを待つ母の元を訪れる。「『おや、きれいな桜ですこと』四十半ばの、柔和な顔をした女だった。履物を脱ぎかけて、野江は不意に式台に手をかけると土間にうずくまった。ほとばしるように、眼から涙があふれ落ちるのを感じる。とり返しのつかない回り道(映画では野江の母が回り道を言う)をしたことが、はっきりとわかっていた。」原作はここで終わるが、藩主にゆだねられた弥一郎の裁断は切腹か助命か。映画は映画なりに、小説は小説なりに余韻を残す。
 この物語では、ソメイヨシノでも八重桜でもなく、断じて薄い色合いの山桜でなくてはならない。


 「コナラやサワラ、エゴノキの生い茂る樹林を塀の窓越に熱心に覗き見ていた。」これは野鳥の会の一風景だが、小説で樹木が出てくる場面は、主人公の視線が主題から少し離れ、別のものを見ようとする動きに近い。
 純平と明日香と達也に見えた彼らの運命が自分にだけは見えず、 また見ようともしなかった。「いまの時期、神宮外苑の銀杏並木はさぞや美しいことだろう。早く東京へ帰りたい・・・。一人きりで構わないから、あの並木道を静かな心で歩いてみたい、と亜紀は泣きそうな気持ちで思っていた。」打ちひしがれた亜紀の心は、神宮の銀杏並木に思いを馳せる。
 「いちょう(銀杏、公孫樹)、銀杏は現存する最も古い前世界の植物です。地質学上・・・現在では東南アジア以外ではほとんど植えられていません。並木の総本数は146本」「選べなかった未来、選ばなかった未来はどこにもないのです。未来など何一つ決まっていません。しかし、だからこそ、私たち女性にとって一つ一つの選択が運命なのです。」運命論を信じる、信じないは個人の問題でそれに言及するつもりはない。最後の終わり方は、読み進めるうちに、あっ、絶対こうなるなというあまりに予想通りでいささか・・・。佐智子の言った「・・に違いないと直観したのです。」が、変えることができない運命を予感させる。