小説の木々11年01月

私の記憶はみな何かの季節の色に染まっている。それは、映画のフィルムの一齣ずつがいろいろな色を持っているようなものであるが、その記憶のフィルムの色はいつも正確な暦の上の季節と一致しているというわけではない。夏の日の出来ごとが秋の感覚を伴って想い出されることもあり、秋のことが晩春の甘い色に染まって想い出されることもある。(「冬の宿」阿部知二)

冬の宿(阿部知二)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文芸文庫 第1刷 10年1月8日発行/11年1月5日読了

 講談社文芸文庫は初めて買ったが領収書をみて文庫本が1,300円もするので驚いた。それはともかく「私の記憶はみな何かの季節の色に染まっている・・・」という最初の文章に惹かれて、久し振りに明治生まれの文豪の作品を読んだ。「昔の名残とも思われる高い欅の樹立がそびえていて、今は秋の落日のなかに、黄色に染まった空から黄金色の枯葉を雨のふるように落としていた」この貸間に居住したうらぶれ寒々とした一冬の日々である。春に向かい徐々にその呪縛から脱していく。「東海道はもう春になっていた。はま江のいる海岸にゆく支線の分かれるあたりは、ことに美しく、松林の間に麦畑が青く、菜種が黄色く、桃が紅く咲いていた」

ふがいない僕は空を見た(窪美澄)★★★☆☆

株式会社新潮社 第3刷 10年12月15日発行/11年1月6日読了

 連作物はあるときは脇役であるときは主役、それぞれに人知れず人生が詰まっている。帯にある井上荒野の「生きていくことへの圧倒的な肯定」であろう。「もう空はすっかり暗くなっているのに、庭の隅にあるサルスベリの紅色がいやにぎらぎらして見えた」そこには精神的に病んだ兄がいた。「沼のまわりにはヤチダモの木が生えている」父はそこで首を吊った。「空気を入れ換えるために窓を開けた。開花が近いせいなのか、サイクリングロードの桜並木全体がうす桃色にかすんでいるように見えた」私はこの世に生まれてこようとする赤んぼうを助けるだろう、とすべてを肯定して前向きになる。

死なないで(井上剛)★★★☆☆

株式会社徳間書店 徳間文庫 初刷 10年8月15日発行/11年1月8日読了

 路子は人差し指で差し念じるだけで人を殺せる能力を持つ。母が脳卒中で倒れた。「母さん、死なないで。あなたは私が殺すのだから」このSF的能力がこの小説に本当に必要であったかは不明ながら、母は回復せずに息を引き取り、怒りの矛先を失う。癌に苦しむ小さな女の子も殺せなかった。末期患者を助けることとは何をすることなのか。「桜の開花は平年より一週間ばかり早く、来週早々には満開と見込まれている。前庭に植えられている桜も、もう五部咲きだ。一陣の春風が桜の木を揺らす」

滅びし者へ(志水辰夫)★★★☆☆

株式会社集英社 集英社文庫 第6刷 08年7月8日発行/11年1月13日読了

 超能力が偶然続いた。志水辰夫には珍しくSF物、別に時代劇物もありいろいろなジャンルに挑戦する作家である。観相力、信長の再来。非凡な自分の能力に気付き、出自を探すうちに、巻き込まれるように愛するもの達が次々に死んでいく。負った運命に翻弄されまわりに誰もいなくなり最後は運命に従って生きて行く。
 「丸一日雨に洗い流された街や木が色艶を一新している。排気ガスで真っ黒になった樹幹から青々と萌え上がっている銀杏の若葉。いまごろ八王子の山の中で咲いているであろうヤブデマリの白い花や、小津川のほとりに並んでいるアヤメの花を思い出した」「ハコネウツギが開花期を迎えて赤と白の花盛り」「左側の木は名前を知らなかったが、右側の木はクサギだった。荒れ地や林を切ったあと、真っ先に生えてくる木だ。傷ついたところからクサギ特有のいやな臭いが漂っていた」「庭の海棠が紅色の花をつけはじめていた」「植え込みで咲き誇っていたツツジが下火になったかと思うと、街路樹のユリノキにチューリップ型の花がつき、ニセアカシアの葉の間から白い花の垂れ下がっている光景が見られるようになった」「スダジイの巨木が思いきり枝を広げて、一本で築山のような緑陰をつくり出していた」よく樹を知った作家だと思う。

海炭市叙景(佐藤泰志)★★★★☆

株式会社小学館 小学館文庫 第5刷 10年10月11日発行/11年1月15日読了

 何年か前に函館に出張で行った。なんだかよそよそしくうらぶれた感じが残った。海炭市は架空の市だが函館市を下敷きにしている。それぞれは拘りのない人達がその市で生きている様を街の変貌とともに短い連作で綴る。絶望なのか希望なのか、何気なくそのままに描かれるがそこはかとなく心に沁みる。冬、「動物たち以外は雪が覆っていて、緑はどこにもない。プラタナスはすべて枝ばかりで、子供達も遊んではいない。葉を落としたアカシアの街路樹が、つんつん夜に突き刺さるように枝を伸ばしている」春、「啓介は窓越しに路面電車の通りや、豊かに葉をつけて微風にそよいでいるプラタナスの街路樹を眺めた」と季節の移ろいを映す。しかし、「産業道路はすっかり春だ。だが、アメリカハナミズキの街路樹が花をつけるのはもう少し後だ。街灯とアメリカハナミズキの樹ばかりが眼につく。アメリカなんとかという、シャレた名前の街路樹をいいわけでもするように、コンクリートの隙間に植えるのだ」という、アメリカハナミズキはアメリカヤマボウシの誤り。アメリカヤマボウシはハナミズキの別名。こんなことにも気がつく。

とける、とろける(唯川恵)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第3刷 10年2月10日発行/11年1月18日読了

 タイトルは官能的だが女性の官能小説はあまり官能的でないということか。官能に満ちあふれた九つの物語と言うか女の業みないなものがテーマ。中では「みんな半分ずつ」が面白かった。「女が対等って言葉を使う時は、すでに優位に立っている。対等なんて、男を見下した言葉だ」生物学的には元々男性は劣等なのにね。「開け放たれた窓の外に、盛りを過ぎた桜が号泣するように花びらを散らしていた」「風が尖っていた。依子の身体は棘を含んだ晩秋の冷気をすっかり忘れていたようだ」「世の中は、自分のほしいものと他人の欲しいものは同じだと信じている人で成り立っている」

クラリネット症候群(乾くるみ)★★☆☆☆

株式会社徳間書店 徳間文庫 第9刷 10年9月20日発行/11年1月20日読了

 乾くるみ作の傾向であるが、想定、話は面白いにしても、本編は少しドタバタ過ぎる。クラリネット症候群では、女子高校生が死んだ恋人の復讐のため爆発火薬の製造、リモート爆破、さらには拳銃発砲まで出てきては、トリッキーと言うか奇想天外で、話を面白くするのはいいが読んでいられない。

警視庁情報官(濱嘉之)★★☆☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第2刷 10年12月1日発行/11年1月25日読了

 フィクションというか警察組織の説明のようで。やっと事件らしいものが出てくる後半1/3の贈収賄、麻薬取締りの箇所ももう少しスリリングなものを期待したのだが。「マロニエの葉が緑を増し始めた初夏の歩道を50メートルほど歩きながら」「都心と温度差が三、四度違うといわれる三多摩のこのあたりでは八重桜が満開だった」「桜の葉が紅葉を終えてそろそろ落葉の季節を迎えた十一月」「羽衣ジャスミンに窓の周辺が覆われている」「有栖川公園の手前で車を降り、路地を覗いてみると、薄ピンク色の羽衣ジャスミンが満開になっていた」

苦役列車(西村賢太)★★★☆☆

株式会社新潮社 初版 11年1月25日発行/11年1月28日読了

 2011年芥川賞受賞作。平成の私小説という触れ込みであるが、確かに最近私小説と言う言葉はあまり聴いていなかった。とにかく絶望的に暗く、なんら好転しそうにない悪循環生活に落ち込んで、毎日が苦役の繰り返しである。僅かに藤沢淸造の作品コピーを作業ズボンの尻ポケットに入れている辺りが唯一次ぎへの変換ポイントだったのだろう。だがこうした生活者は他にいても不思議ではない。更にいえば生きること自体、実は苦役なのかも知れない。

最後の命(中村文則)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 10年7月15日発行/11年1月29日読了

 印象的だったのは「十分置きに踏切が鳴り、電車が通過していく。それはいつも、私に自分の人生が十分置きに刻まれている感覚を与えた」「罪と罰、だけど罪に釣り合う罰はない」小学生の頃同じ体験をした冴木と私が歩んだ人生は違うといえば違うし、同じといえば同じ。二人とも受け止められずにいた。その二人が落ち込んでしまった穴からどうやって這い上がればいいのか、救いはあったのだろうか。