小説の樹々21年01月

郊外の学園都市には、苦労や不幸とは無縁の空気があった。駅前のロータリーから南に向かってまっすぐに延びる大通りの左右は老いた桜並木で、ほかにも松や楓や銀杏の緑が溢れていた。しかし、もし僕の見誤りでなければ、武蔵野の樹木の主役である欅が見当たらなかった。おそらく学園通りの桜を美しく咲かせるために、陽光を遮る欅を切ったのだろう。僕の育った養護施設は欅の森の中にあった。頭上に蓋を被せられたように暗鬱で、秋が深まれば降り注ぐ朽葉を、際限ない苦役のように集め続けなければならなかった。だから僕がその町のたたずまいを気に入ったのは、欅の大樹がないせいかもしれなかった。(「おもかげ」浅田次郎)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

おもかげ(浅田次郎)★★★★☆/ISBN978-4-06-520789-5

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 20年11月13日発行/21年01月10読了

人は死ぬ前に走馬灯のように一生の記憶が蘇るという。神様は途方もない走馬灯を用意していた。捨てられながらも母と約束した再会の場面。忘れなければ生きていけない、と思い込んで今まで頑張ってきた。もう思い出してもいいと、忘れていた自分に会う。出演者が少し偶然に過ぎる場面もあるが、そこは目を瞑って、今自分自身を取り戻した。最後が生き返るように終わるが、これは精神的再生で、おそらく息を引き取るのだろう。

昨夜のカレー、明日のパン(木皿泉)★★★★☆/ISBN978-4-309-41426-3

株式会社河出書房新社 河出文庫 第30刷 20年11月30日発行/21年01月17日読了

ギフもテツコもどこか現実離れ、浮世離れしている人々である。一樹が亡くなって7年、義父と嫁が昔から家族で会ったように生活する。老いて変わっていく生活への恐怖と、徐々に一樹の死を受け入れていく間合いが緩やかである。「人は変わってゆくんだよ。それは、とても過酷なことだと思う。でもね、でも同時に、そのことだけが人を救ってくれるのよ」

今度生まれたら(内館牧子)★★★☆☆/ISBN978-4-06-521872-3

株式会社講談社 第1刷 20年12月01日発行/21年01月22日読了

身に詰まされるテーマである。それでも身の回りで十分に波乱万丈で、いささか遣り過ぎ。「七十代に入ってわかるが、六十代は若い。というのも、振り返れば五十代が見える。八十代は残りの人生が見える。夫婦互いに不満はあっても、「やっぱりこの人しかいない」と温かな気持ちにもなろう。一方、老人なのに老人になり切れないのが、七十代だ。」なぜ、平凡ではいけないのか。夫婦そろって老境に入ることも一つの幸せ。選ばなかった別の道はない。

血縁(長岡弘樹)★★★☆☆/ISBN978-4-08-744021-8

株式会社集英社 集英社文庫 第4刷 20年07月22日発行/21年01月28日読了

血縁にまつわるミステリー短編。血縁だからこそどこかドロドロしたものがある。「ラストストロー」は、三つのボタンで繋がれた三人の刑務官。お互い血縁ではないが、血縁以上に良くも悪くも結束されていた。最後の一押しが、最後の恩情。

刑事の怒り(薬丸岳)★★★☆☆/ISBN978-4-06-518403-5

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 20年3月13日発行/21年01月31日読了

表層的な解決の裏にある深い真実を、丁寧に掘り起こす刑事。どこか、何か変だと感じる違和感が、とことん突き詰める心を揺り動かす。こうした姿勢が、夏目刑事だけなのが危機的で寂しいが。