小説の木々2(小説に出てくる木々)

  小説を読んでいるとところどころに樹木の記載が見られる。大体主人公がふっと視線を逸らす場面であり、樹木を借りて心象を表現する場面である。樹木自身は物言わぬが、その存在だけで言葉を発するかのようである。
  最近ホームページ掲載を意識して、小説を読みながら樹木の表現があるとページと樹木名をメモしている。もちろん樹木の表現がまったくない、樹木を使わない本もあるがそれは省略。別に樹木の有り無しは、小説の良し悪しやストーリに大差はない。何故その樹木かは作者の想いそれぞれだが、樹木に想いを寄せて心象を表現することがある。樹木自身は物言わぬが、その存在だけで言葉を発するかのようである。

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

悼む人(天童荒太)


 「建て替える以前から、庭には梅の木があった。春以降の彩が淋しいため、巡子が提案して、和室の前に、夏に咲く百日紅を植え、奥の一角に、秋咲くキンモクセイを、道路との境の柵に、椿の生け垣を設けた。ほかにも、春に咲くボケ、初夏のアジサイ、夏のムクゲ、赤い実が秋に楽しめるマンリョウなどを植え」樹木に愛着と、植物の強靭な生命力によって、両親や兄など、亡くなった人たちへの喪失の想いを癒すのを、樹木に求めたのである。
 「その先に、幹の細い木がまっすぐ空に伸びている。高い枝の先で、淡い黄緑色の小さな花が、線香花火の火花のように四方八方へとはねる形で、無数に咲いていた。『タラの木ですね』と静人は言う。」タラの木に寄せて、ここで亡くなった少年への想いを表す。「タラの花だろう、淡雪のような花びらが舞い落ちて、彼の前をよぎり、亡くなった少年が愛用していた小さな椅子のひじ掛けに、そっと載った。」静人が少年を悼む場面に、タラの木が象徴的である。

冬のひまわり(五木寛之)


 五木寛之の本は、中学生の頃「風にふかれて」を読んで以来である。本屋でたまたま読む本を探していたとき、題名が目につき、手にしたのがこの本だった。
 アルメニアでは女の三十代を夏のひまわりというらしい。「雨はまだ降りつづいている。けむったようなこまかい雨が、六月の青葉を濡らして音もなく周囲をつつんでいた。池のむこうのカエデの木の葉先が、風もないのに手招きするように揺れているのはなぜだろう。」こうして物語が静かに始まる。
 「ふと、蝦手(かえるで)、という奇妙な言葉が麻子の頭に浮かんだ。カエルデ、とは、カエデの古い呼びかたであるらしい。万葉時代の人びとは、五本の指をひろげたようなカエデの葉のかたちから、蛙の手を連想したのだろうか。」
 おそらく、このカエデはあまり物語りに重要な意味を持つとは思わないが、むしろ想いが淡々とし、緩やかな時間が感じられる。

ディスカスの飼い方(大崎善生)


 著書名からして、ハウツー本かと思う。「アジアンタムブルー」「パイロットフィッシュ」を書いた作家で今回の作品のディスカスは熱帯魚。「母屋があって中庭があって、ガレージがあってその先に公道がある。人間が住む家としての本来の機能よりも、庭やガレージを重視した本末転倒の発想が面白かった。庭には芝生が敷きつめられていて、フェンスにはイングリッシュオールドローズが蔓を絡ませて咲き誇っていた。真ん中あたりに大きなミモザの木が一本と、ハナミズキが一本植えられている。」熱帯魚が中心の話が、物語の舞台がこの庭と熱帯魚を飼っているガレージなのである。
 「庭のハナミズキの葉の緑は少しずつ勢いを失っていた。地上に落ちた葉を拾い集めながら僕は芝刈りをしていた。よく晴れた夏の終わりの空に、電動芝刈り機のエンジン音が甲高く響き渡っていた。よく晴れた空気は音をストレートに伝える、それが心地よかった。」その後、6年が経った。「僕は少年から目をそらして、庭の真ん中に植えられた枝振りのいいハナミズキを眺めた。深い緑が生い茂っている。中庭には空からの太陽の光が降り注ぎ、まるで何もかもが夢の世界のようだった。」
 そこにたった一本のハナミズキがあることで、中庭の風景が作られている。

四つの嘘(大石静)


 「昔と違ってビルばかりになってしまったが、秋になると黄色く色づく街路樹のとちのきだけが、昔のままだ」「ゆかりは、大きなもみの木にもたれて聞いていた」「ゆかりがもたれているもみの木が、ザワっと揺れたような気がした」これはどちらかというと昼メロですね。詩文(しふみ)がこういう「嘘なんか誰でもつくわよ」

あふれた愛(天童荒太)


 四つの短編からなるが、ずいぶんと樹木を使っている
『とりあえず、愛』「駅前の道に沿って植えられたハナミズキは、二ヶ月前に花が落ち、今は濃い緑色の葉が茂っている。武史は、できるだけ木陰を選び隅田川に向かって歩いた」「九月に入り、吹く風もずいぶん涼しくなった。歩道沿いに植えられたハナミズキの葉が、紅く色づき始めた」、こうして季節を小説に塗りこんでいくんですね。また、痴呆になった老妻を思い、「春になれば、ハナミズキの白い花が咲くでしょう。その日を旦那さん、心待ちにしているんです。昔、満開のハナミズキの下で、奥さんにプロポーズしたらしくて。花を見たら奥さんも、きっと自分を思い出してくれるだろうって」
『うつろな恋人』「どの桜もまだつぼみを閉じているが、満開の頃には、きっと一帯があでやかな色に染まって、壮観であろう」「ベンチのそばには、白木蓮が植えられていた。女性的な曲線を持つ花の形と、白い肌を連想させる花びらのつやについ智子の線を」「彼も気が付かないうちに開花の時期を迎えて、広々とした丘陵一帯が、あでやかな桃色に染まっているのが眺められた」「湖面をおおった桜の花びらを水鳥が静かに崩していく。やがてまた波に花びらが運ばれ、湖面が桜色におおわれる」「白木蓮の白い花弁の一枚が、ぽろりとはじけて、肩に落ちた」桜を季節の移ろいに、白木蓮を智子のイメージにしている。
『やすらぎの香り』「遊歩道に沿った植え込みに、クチナシが植えられている場所がある。開花の季節を迎え、白い球形のつぼみがいくつもふくらんでいた。開きかけた一輪のつぼみをみつけ、ふたりは」「クチナシは満開になっていた。茂樹が、なかの一輪を選んで、手折った。クチナシの花は、水を注いだグラスに」「かすかなかび臭さとともに、ほんのわずかだが甘い香り室内に漂っているのを感じた。茂樹が手折ったクチナシだった。純白だった花びらが、もう黄ばみ始めているのに、花を近づけるとバニラに似た匂いがした。どうにもやりきれなくて、クチナシを窓の外に捨てた」精神を病んだ二人の脆い危うげな生活がクチナシを通して語られる。
『喪われゆく君に』「藤の花が満開でした。本当にあんな藤、見たことがなくて、二度と見られないかもしれないなって、そのときちらっと思ったんですけど」「ごつごつしたつるが幾重にも棚に巻きついてはいるが、花どころか葉もすべて落ち、いわば裸の状態だった」季節の違いを無視しても、幸乃の幸せだったときを追体験しようとする浩之。最後は、喪失感ですかね。

余命(谷村志穂)


 最近涙もろくなって困った。2006年発行、2009年2月映画化。本の中で、まさにこれから我々がみる2009年7月の皆既日食がある。できれば、興味のある方はそれまでに目を通しておくといいと思う。
 物語は良介の診療風景から始まる。「診療所の開け放った窓から、山吹の花色を映して澄んだ陽光が差し込んでいた。桜の花が見頃を過ぎると、山は一面に山吹の黄にまばゆく染まる。光は黄金色に輝きはじめる」最初と最後の章は、良介と瞬太しか出てこない。
 妊娠した滴(しずく)がまだオートバイで通勤している姿である。「滴の跨るオートバイはゆっくりと青梅街道を駆け抜けていた。この通りには、両サイドに長く続く見事な欅の並木がある。無機質なビルディングに挟まれた甲州街道とは、様相の異なる風景を切り取る道だ」
 ここから、初めて聞くどんな木かも知らない奄美大島の南国の木が続く。「その外側に茂っているクロトンの肉厚な葉は、奄美の墓地ならどこでも見られるもので、赤や緑や黄色の条や斑紋が入っている。人の背丈ほどもあるクロトンの木は、墓地のあちらこちらに植えられ、墓参をする人たちは、鋏で切って、これを供える」癌の再発を隠し治療も拒み出産を覚悟した滴が、生まれ故郷の奄美の加計呂麻(かけろま)島に帰った。「諸鈍(しょどん)のデイゴ並木は、五月になると赤い花をつけるが、今は新緑の木立だ」
 すでに残り少ない日々を、良介、瞬太とともに奄美に転居する。「アダンの木に囲まれた海辺の高床式の家」で、そしてとても無理だろうと思われていた2009年7月の皆既日食を家族で迎える。

(小池真理子)


 昨年読売新聞に「ストロベリーフィールド」が連載されていたが、女房がハマって読み続けていた。小池真理子の「恋」は第114回直木賞受賞作である。読んで行くうちに二つのイメージを思わせる展開であった。一つは、肺活量測定の健康診断。『ハイ、息を大きく吸って。ハイ、思いっ切り、吐き出す』こんなイメージで、一挙に奈落の底へ落ちていく。もう一つは、同質の異物であれば、混入しても時間とともに溶け親しんでいくが、がん細胞のように異質の異物が混入すると、瞬く間にすべてが破壊されていく。「この堕落しきった幸福な一瞬が永遠に続くけばいい、と私は願った」そのときすでにその兆候が現れていた。
 「教会の本堂脇に一本の桜の木があり、散りかけた桜の花びらが雨に打たれているのが見えた。路面に落ちた花びらは、深い水たまりの中に浮かび、あとからあとから降りしきる雨を受けて踊っていた」布美子の遺体と別れる葬儀のときと、その25年前、「満開の桜が風に吹かれ、はらはらと散り広がって、芝の敷かれた庭先を薄桃色に染め上げていた」布美子が運命に翻弄される片瀬夫妻との出会いである。これが同じ桜である。「畑の周囲はカラマツ林で、林の向こう側には浅間山がそびえており、霧でも出ない限り、山はすぐそこに間近に迫っているよう見えた」「木々の梢越しに覗くことができる空は、色褪せることを忘れたような群青色に染まっていた」1972年2月29日、連合赤軍の浅間山荘事件の日である。この日、この軽井沢で事件は起こる。
 「マルメロの実がなるころには、彼らは間違いなく中年になっているはずだった。彼らがぼんやりと昔を思い出しながら別荘の庭を眺めている時に、マルメロの実が成ったことと私のことを結びつけて考えてくれれば、どんなにいいか」こうして布美子はマルメロに変わらぬ思いを託す。
 「女将の後ろには、台座に載った大きな壷があり、壷には寒椿の枝が活けられていた。よく見ると、和服姿の女が締めていた帯にも、寒椿の模様が染め上げられていた」薄暗い宿の中で、寒椿の赤い色が浮かび上がるようである。「夏の間、勢いよくとうもろこしを実らせていた畑は、白いクリームで被われたようになり、周囲のカラマツ林は葉を落とし、冴え冴えとした透明感のある冬の空に向けて、針のように細い枝を伸ばしていた」こうなるとすでに終章である。
 「今、彼の前にたわわに実っているのは、見事に結実したマルメロの果実だった。それはかって矢野布美子が中軽井沢駅前の植木市に行き、無料でもらってきたマルメロの苗木が、時を重ね、成長したものに違いなかった」布美子はこれを知らず、すでにの世になかった。

孤独の歌声(天童荒太)


 めずらしくサスペンスドラマであった。変質者による女性連続誘拐・監禁・殺人事件と、コンビニ連続強盗が並行して進行する。コンビニ強盗担当だが、心の底に少女誘拐の傷を持つ婦人警察官風希(ふき)が、結果的に連続殺人に巻き込まれていく。
 公園にいる潤平を探し当て、公園に入る風希。「園内の木々はすでに色づき始めており、ハナミズキ鮮やかな紅葉がひときわ目をひいた」疑いが晴れてコンビニのバイトに戻る潤平、なんとか事件解決の糸口を見つけたい風希。この本では、木の表現はここだけである。
 題名は、潤平の声が「淋しいんだけど慰められる、淋しいんだけど励まされる」、そんな声だから。サスペンス仕立てにひきずり込まれた。


 僕(松原直人)は、常に覚めている。いるべき所は、今いるここではないと思っている。「ビルの谷間を吹き抜ける東京湾からの夜風が三人の背中を押してくれる。路肩に植えられた桜の木はどれも花を散らせていたが、繁らせた鮮やかな緑の葉々強い風にざわめかせていた」子供時代の消し難い記憶がそうさせるのだろうか。母が亡くなったのは7月8日、僕が2歳のとき、母が僕を動物園で捨てたのも7月8日。
 「僕は学校の帰りに、よく寺の境内に入って、大きな樟(くす)のたもとに腰を下ろし、文庫本を読んだ」寺の住職の娘、真知子は「私の病気はお医者様では直せないの。だから私はずっとビワのお世話になってきたのよ」といい、5つ年下のそんな高校生だった僕を可愛がってくれた。母がなく亡くなった時、久しぶりにその寺に行く。「樟の巨木は濃緑の葉を繁らせ、初夏の強い陽射しに深い影を足元に広げている」
 雷太が殺傷事件を起こし、その恋人のほのかと大学で待ち合わせる。「銀杏の巨木がそこここに植わり、黄色く染まった葉を繁らせている。道もまるで黄色の絨毯でも敷きつめたかのように大量の落ち葉で埋まっていた」「毎年こうして黄葉が積もって、掃除の人がたいへんそうなんです。銀杏の葉っぱって肥料にならないらしくて、ただ捨てるしかないんですって」

利休にたずねよ(山本兼一)


 第140回直木賞受賞作、時代物ということでしばらくは手を付けないでいた。物語は秀吉の命で、利休が切腹するところから始まる。各章に主人公がいて、切腹から順次時間が遡っていき、その時々の利休が描かれる。しかし全編にわたり、緑釉(りょくゆう)の香合(こうごう:茶室で香をたくための入れ物)に象徴する、高麗の一人の女性が描かれる。それも章を追うごとに強くなっていく。
 利休切腹の日、「松や槇の枝が風にしなり、歯朶や千両が雨に叩きつけられてい」稲妻と雷鳴がしだいに強さを増していた。「あたりは鬱蒼とした杉の森だが、都に近いだけあって、百姓家にさえ雅な風情がただよっている」ここに利休切腹の口実があった。「そばに木槿の木が描いてある。まっすぐに伸びた枝々にいくつもの白い花が咲いている。白い花のまんなかに、ちいさく紫がにじんでいる」木槿に隠された秘密を暗にほのめかすところである。
 時間は遡っていくが、利休が信長、秀吉に重用されていく。「樅の木が何本か枝をひろげているので、西の愛宕山は、木立のあいだに見えるだけだった」「松の緑のむこうに、上京(かみぎょう)の家並みと東山が見える」「一枝の椿が活けてある。竹を切った筒にさした枝には、赤く丸い小さな蕾がひとつ」北野天満宮で大茶会を催す日は、「見上げれば、松の枝のむこうの薄明の空には、一片の雲とてなく、いかにもすがしがしい」そして利休19歳、「槿花一日自為栄(槿は一日しか咲かないがそれでもすばらしい栄華だ)」木槿の白い花こそ、この物語である。
 付け加えれば、「一輪の椿が目についた。赤い蕾がひとつと葉が何枚かついただけの椿の小枝が、古びた竹の筒に投げ込んである。ヨウロッパ人ならば、ちょうどころあいに咲いた花を選ぶであろう。しかしそれでは椿はただの装飾にすぎない。丸く硬い蕾は、これから咲きほころうとする強靭な生命力を秘めている」これが利休であった。