小説の木々10年2月

 「雨の匂いがするな」「うん」「俺、雨嫌いじゃないぞ。雨の匂いって」「わたしも嫌いじゃないよ」雨が降っている。静かに降っている。わたしも哲ちゃんも、ただ並んで座り、そのかすかな音をきいている。たまらなく寂しくなって、哲ちゃんに寄り添い、彼の肩に頭を預けた。哲ちゃんは腕を広げ、すっぽりとその中にわたしをおさめてくれた。哲ちゃんのぬくもりに、張りつめていたものがゆるむ。急に眠くなってきたので、わたしは目を閉じた。(「ひかりをすくう」橋本紡)

フィッシュストーリー(伊坂幸太郎)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第2刷 09年12月10日発行/10年2月1日読了

「車を停め、運転席から外に出る。周囲は木々で囲まれていた。十二月の今は、葉もつけておらず、その細い枝を伸ばした姿は、あっけらかんと服を脱いだ細身の男女を思わせる」こんな発想は初めてだった。「風で揺れる頭上の杉の葉のさざめきが気紛れで、私の正義感を揺り動かした、まさにそんな具合だ」売れないレコードの三作目、演奏中に消された1分間くらいの無音の箇所がある。複数のハイジャック犯をいとも簡単に叩きのめすのはちょっと、と思うが、それが風が吹けば桶屋が儲かる式に繋げられていく。他作品の出演者も出てきたり、気負ったところのない洒脱な、計算されたストーリー展開。「届けよ、誰かに」との願いはこの皮肉にもこの無音から届けられた。

廃墟に乞う(佐々木譲)★★★☆☆

株式会社文芸春秋社 第2刷 10年1月20日発行/10年2月3日読了

「道は丘陵地の先、農業試験場の入り口にゲートまで、十キロあまり続くサクラ並木となっている。いまはちょうどそのサクラが終わった時期だ」直木賞受賞作である。ある事件でPTSDとなり休職中の刑事が殺人事件を追う。休職中なので、事件の核心には入れないし公務でもはなく、現場にも1,2日しかいないのに、どうしてこんなに簡単に事件を解決するのか。これでは所轄の顔がつぶれる。「ナラの木立があって、道はその木立の奥へと続いている。丸太の黄色っぽい樹肌が木立越しに見え隠れする」第一話の「オージの村」からして、軽すぎる嫌いがある。「若いカシワの木の小さな木立がある。カシワの枝には、茶色になった葉が残ったままだ」最後にPTSDになった理由が出てくるが、最後までとっておくほども無く容易に想像出きる。ただ休職状態を作るためだけの設定か。

青春夜明け前(重松清)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 10年8月12日発行/10年2月5日読了

本州の西の外れ(山口県だろう)の人口数万人の小さな田舎町。友情とか旅立ちとともに、小年期の性へのあからさまな渇望を語る。「僕がこの町を出る頃には、空の黄色がもっと濃くなって、真昼の太陽の輪郭を見ることもできるはずだ。今は五部咲きの桜もその頃には満開に近くなる。町並みは、桜のピンク色と黄砂の黄色が交じり合った、いかにもピリッとしない色合いになって、『ほな、またのー。元気でやれやー』と寝ぼけたようなのんびりした口調で僕を見送るのだろう」誰しもこんな時代があったのだなと、懐かしさと悔恨と悲しさに似た思いが通り過ぎる。

ひかりをすくう(橋本紡)★★★☆☆

株式会社講談社 光文社文庫 初版第1刷 10年6月20日発行/10年2月6日読了

カバー表紙の樹は藤である。「頭上では藤がその花を連ね、住宅街の真ん中にあるとは思えないほど深い森が周囲に広がり、野鳥の声が聞こえ、隣には大好きな人がいる」パニック障害になった智子は仕事を止め、三歳年下の哲と郊外の田舎へ移り住む。これといって大きな事件もないが、淡々と日が過ぎていく。「暖かい毛布に包まれたまま、カーテンの隙間から漏れる陽光をぼんやりと眺める。細い光の筋がきらきらと輝いていた。ふとみると、緩く握った手のひらが椀のようになっていて、その窪みに光が一杯溜まっていた。手を開くと、光は瞬く間にこぼれてしまった。けれど、もう一度指を合わせれば、再び光に満たされる」「人生はきれいなことばかりじゃないし、優しいわけでもなく、また美しいわけでもない。見えないところに汚いことをどんどん溜めているだけなのかも」つましくも穏やかな日々が智子を癒していく。「雨が降っている。静かに、穏やかに雨が降っている」資産家でもなく蓄えもそれ程多いとは思えない二人、生活感が希薄すぎるのが気に掛かる。

ALONE TOGETHER(本多孝好)★★★☆☆

株式会社双葉社 双葉文庫 第30刷 10年4月9日発行/10年2月7日読了

他人と同調できる能力を持つ柳瀬、同調した人は心の深層を語る。おそらく表には出したくなく出せなかった暗闇を。「風向きが変わった。僕の頬を湿った風が撫でていった。風は梔子の香りを乗せていた。僕は開け放たれたガラス戸から続く庭を見遣った。金木犀、椿、梔子、百日紅。小さな庭に整然と植えられた木々があった」自殺した父が最期に言った「だから決して使うな」知ってしまうことの苦しみも同時に耐えなければならない。知られることを知ると、他人は当然避けて去っていく。これこそ、呪われた力である。

タタド(小池昌代)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 初版 10年2月1日発行/10年2月8日読了

五十代の男女四人、海辺の別荘でなんともない時間を過ごしていた。ただ飲んでおしゃべりして、ただそのとき、「何かが決壊したと、スズコは思う。始まった以上、それは止められない」理屈も何もない、なんとも言えない、日常に潜む非日常性か。「若くない女が、何かを滅ぼすような声で歌う。水気を含んだ重い歌声が、女たちの暗い子宮を満たすように広がる」このまったりとしたエロチシズムがいいですね。

MISSING(本多孝好)★★★★☆

株式会社双葉社 双葉文庫 第46刷 09年4月9日発行/10年2月10日読了

「眠りの海」「祈灯」「蝉の証」「瑠璃」「彼の住む場所」の短編集。瑠璃が良かったな。ミステリーというが恋愛小説ではないかな。「私とは寝たい?」何も考えず、僕は素直に頷いた。「そう」とルコは微笑んだ。「ずっとそう思ってた」と僕は言った。「ずっと前から。姉ちゃんは初恋だっていうけど、僕がルコに抱いていたのは、そんな無垢な気持ちじゃない。僕はずっと前から、そういう感覚が備わるずっと前から、ルコと寝たいと思っていた」「でも寝ないんでしょ?」とルコは聞いた。「うん」と僕は答えた。「寝ない」「でも寝たいとは思ってくれるのね」とルコは聞いた。「うん」と僕は答えた。「ずっと思っている」「ありがとう」とルコは丁寧に頭を下げた。そしてルコは部屋を出て行った。僕の目の前を黒い髪がかすめていった。僕がルコを見たのは、それが最後だった。「眠りの海」の僕を救った少年は、もう少し捻りが欲しかった。「事故のきっかけを作った子供だった。何かに耐えるように唇をきっと結んだその顔を覚えていた。けれど、彼は耐え切れなかったのだろう。彼はまだこの暗い海のどこかに眠っているのだろうか」死んだ子供が僕を助けたのはミステリーとしても、そこに至る死はよく分からない。

FINE DAYS(本多孝好)★★★☆☆

祥伝社 祥伝社文庫 第10刷 09年8月30日発行/10年2月11日読了

ミステリーで、ファンタジーですね。つまり非現実もOKというような。映画化もされた「イエスダディ」、読者の年齢に拘らず、素直に、ですね。澪は消える前に何を父に伝えたかったのだろうか、それはそれぞれが勝手に解釈するしかない。結局なるようにしかならない、まるで何もなかったように、というような空気が流れる。「満開と思える桜の木の下に、誰もいないベンチがポツンと一つあった。満開の桜の艶やかさも、舞い散る花びらの華やかさも、ベンチに誰もいないという寂しさを引き立てる役割しか果たしていなかった」

チェーン・ポイズン(本多孝好)★★★★☆

株式会社講談社 第1刷 08年11月1日発行/10年2月13日読了

「二十歳の原点」高野悦子、鉄道自殺。「私は背もたれに身を預けるようにして首を折り、空を仰いだ。ベンチに覆いかぶさるように伸びた桜の枝が小さな蕾をつけ始めていた」そのスーツ姿の人は「本気で死ぬ気なら、1年待ちませんか。ご褒美を差し上げます」と言った。「誰にも求められず、愛されず、歯車以下の会社の中での日々定年までの生活は、絶望的な未来そのものだった」(書籍帯より)。この世の様々な問題は自分の居場所がないことに突き当たる。ボランティアで行ったホスピスの患者からも「死にたいんだろ?馬鹿にするなよ」と言われる。週間誌記者の原田は事件にすらならない高野章子の実像を追い続けた。最後にたどり着いたのは・・・、しかしささやかな救いがあった。「ことん、瓶が床に落ちた音を聞いた気がした」本多孝好の各作品に何気なく挿入されるこの「コトン」あるいは「コトリ」という音。何かのスイッチが入ったような音。

ゼロハチゼロナナ(辻村深月)★★★★☆

株式会社講談社 第5刷 09年12月18日発行/10年2月15日読了

母と娘、女性同士の友人、会社の同僚。その深淵がどろどろと深い。読みながら愉快ではないが、本当にこんな関係?本当に思い?怖ささえ感じる、女性ならではの描写かと思う。「高い桜の木が風にさわさわと揺れるのが見えた。ここに実際に赤ん坊を抱えてやってきた母親や、父親がいるのだ」天使のベッド(赤ちゃんポスト)に望みを懸けたチエミの思いは、挫折する。それでも、隣にみずほがいた。題名の数字「ゼロハチゼロナナ」は、娘に刺されてもなお母の最期の気持ちを表すものなのだろう。

しずく(西加奈子)★★★☆☆

株式会社光文社 光文社文庫 初版第1刷 10年1月20日発行/10年2月17日読了

6つの女二人物語。「木蓮が咲いていた。マンションまでの坂道、白い花びらを大きく広げたそれを眺めながら、私は自転車を漕いでいる」いい日だ。とてもいい、日曜日。コーヒーを一口飲んで、私は、思わず口を開く。「・・・糞・・・っ!」なにやら最初から不穏な気配が。マリ、七歳、私の恋人の子供。ついに私がキレタ。こんな糞餓鬼と糞動物園にいる糞な私。そのとき何が起こったのか。「木蓮だ。あれね、おばあちゃんの木なんだ。白いのは、本当はハクモクレン、ていうんだよ。庭にあるの。大好きなんだ、て。だから私、あるだけの木蓮を見つけたいんだよね。ほんで、おばあちゃんに、教えてあげたいんだよね」マリは昨年亡くなった祖母にそう言った。

静人日記(天童荒太)★★★★☆

株式会社文芸春秋社 第1刷 09年11月25日発行/10年2月18日読了

直木賞受賞作「悼む人」の日記版、更に静人の心の葛藤を追った。悼むことが何になるのか、そもそも矛盾ではないか、結局自己満足。しかし、自分以外の何ものかの欠落と結びついているのではないかと悩む。2005年12月から2006年6月までの半年を彷徨う。「公園のクスの大樹の根元から、空を見上げて耳を澄ます。答えはどこからも聞こえてこない」「途中大きな山桜の樹があった。見上げると、青い空をおおいつくすほど咲き誇った花が、強い陽射に白く輝いている。男性がなくなったのは五月の連休中で、山桜は花を散らし、、青々と葉をつけていた頃らしい。新緑だけではなく、川べりの苔の色もみずみずしく映えていたことだろう」寒椿の咲く高齢者ホーム、ミズナラの樹の根元で発見された少女・・、桜、ハナミズキ、ツツジ、プラタナス、シイ、クリ、ケヤキ、アジサイ、ブナ、ニレと木々とともに季節も移ろっていく。教わった手話を、丁寧に、彼女に向けて送る。<あなたの・幸せを・心から・願っています>

きみ去りしのち(重松清)★★★☆☆

株式会社文芸春秋社 第1刷 10年2月10日発行/10年2月20日読了

「去年の秋、イチョウの葉が黄色くなりかけた頃に、ここでガソリンを満タンにして旅を始めた」一歳の一人息子が何の前触れも無く亡くなった。妻は「もしも」を、私は「なぜ」を繰り返し自分に問う。誰の責任でもない、誰を攻めるわけにもいかない。だから自分を攻め続ける。忘れることや捨て去ることはできないが、少しずつ薄めることはできるかもしれない。時の流れが解決してくれることってあるんじゃないか。「京都から奈良に来た。花の旅になった。名残のツバキや桃の花から、今が盛りの菜の花、レンゲ、そして京都の町中から奈良の里への桜を追った。夜空にかかったおぼろ月が満開の桜を夜の闇にほの白く浮かび上がらせていた」

いのちの代償(川嶋康男)★★★☆☆

株式会社ポプラ社 第1刷 09年9月15日発行/10年2月23日読了

ノンフィクションである。昭和37年12月31日、北海道学芸大函館分校山岳部のパーティ11名は冬山合宿に入った大雪山旭岳で遭難、部員10名が死亡、生還したのはリーダの野呂一人だった。サポート隊の一日の遅れが命取りとなり、事故に「もしも、何故」は言えないが無常である。自然の猛威は人間の予想を遥かに超え、ブリザードはテントを引き剥がす。これが致命傷となった。「ヤナギやハンノキなどの建築用材を満載した貨車がつながれ造材を基幹産業とする街らしく、木材や炭鉱景気で賑わっていた」生き残ったリーダ野呂はそんな樺太に育った。遭難以来、死んだ10名の黒い十字架を背負って生きた。

食堂かたつむり(小川糸)★★★☆☆

株式会社ポプラ社 第5刷 10年1月26日発行/10年2月24読了

同棲していた恋人がある日、荷物とともに消える。倫子は失語症となり、中学を卒業して飛び出したふるさとへ初めて戻る。「裏山に続くけもの道をかき分けると、思い出のあの場所まで、一目散にかけ上がる。そこは小高い丘になっていて、ひときわ立派な無花果の木がある。この十年、おかんに会いたいとは思わなかったけれど、この無花果の木は恋しくて、何度も夢の中で探し続けた」祖母から習ったやさしさと料理があった。母のために母が大事に飼っていた豚のエルメスを殺して料理した。「牧場に点々と植えられた桜の木までが、うれし泣きするように、花びらをひらひらと舞わせ、テーブルの上に降り注ぐ。本当に大事なことは、自分の胸の中にぎゅっと鍵をかけてきっちりしまっておこう。誰にも盗まれないように。空気に触れて、色褪せてしまわないように。風雨にさらされ、形が壊れてしまわないように」そして声が戻らないうちに母は骨になった。

張込み(松本清張)傑作短編集(五)★★★☆☆

株式会社新潮社 第90刷 09年12月15日発行/10年2月26読了

 「道路は道幅も広くていい道だった。町を出はずれると両側が広い田圃で山が遠かった。道の両側に櫨の樹が多く、真っ赤に紅葉して美しかった。道は丘陵を緩い勾配で上がっていた。その両側には落葉が一杯溜まっている。森林の黄蘗色に、楓が朱をまぜていた」短編「張込み」の主人公は刑事でも被疑者ではなく、被疑者の昔の女。刑事は被疑者が必ず立ち寄るだろうと女を張り込む。平凡で疲れたような情熱を感じさせない女。その女が被疑者に会ったとき再び火がついた。女の日常と非日常の鮮やかなコントラストがなんともいえない。「このあたり一帯は、まだ武蔵野の名残があって、いちめんに耕された平野には、ナラ、クヌギ、ケヤキ、赤松などの混じった雑木林が至る所にある。武蔵野の林相は、横に匍っているのではなく、垂直な感じで、それもひどく繊細である。荒々しさはない」武蔵野の雑木林がよく出ている。