小説の木々14年02月

 窓から弱い風が入り、ふうわりと、甘い匂いがした。がたがたと上にガラス戸を持ち上げる方式の、外国映画のなかでしか見たことのない窓だ。どうやって固定するのか、妙な興味が湧いて近づく。外の空気を吸いたかったのかもしれない。見おろすと、こんもりと樹木の茂った裏庭が見えた。何本かの木は、いっぱいに白い花をつけている。甘い匂いはそこからくるのだろうか。・・・こんなところで泣くわけにはいかない。第一、それは一体何に対する涙なのか。「桜ですか?」岸部の声がした。いつのまにか、すぐ隣にやってきていた。「はい?ああ、いいえ、杏です。今年は花が遅くて」口髭が窓の外を見てこたえる。桜?私は人の好い岸部に、無性に腹がたった。わざわざいまここで、無教養をさらすことはないではないか。(「抱擁、あるいはライスには塩を(上)」江國香織)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

恋歌(朝井まかて)★★★★☆
株式会社講談社 第5刷 14年1月22日発行/14年02月02日読了

幕末の水戸藩における天狗党の乱をもう一度紐解いてみた。この時代、好むと好まざるに関わらず、時代の騒乱に翻弄され、巻き込まれていく。一族郎党、幼子まで斬首する非情さは、やはり時代背景なのだろう。登世はそうした時代の中にあって以徳への一途な思いを持ち続け、波乱に満ちた一生涯を全うする。なかなか読み応えが合った。

(小山田浩子)★★★☆☆
株式会社新潮社 14年1月25日発行/14年02月04日読了

実に奇妙な世界を描く<不思議の国のアリス>を思わせるファンタジーで、ありそうな現実社会。ある日穴に落ちる。日々の生活でも、いつの間にかなんとなく迷い込んだ気になる。聞いたこともない義兄、いつも水を撒く義祖父、子供たち、葬式に来た老人たち。実際にいたかどうかはたいしたことではなく、気がつくと、知らぬ間に穴にどっぷりはまり込んだようで怖い。

愛を振り込む(蛭田亜紗子)★★★☆☆
株式会社幻冬舎 第1刷 13年10月25日発行/14年02月05日読了

女性作家だからだろうか、女性に容赦がない。こんな女性たちってその辺にいそう。一枚の汚れた千円札が、印象的に順番にそれらの女性の手にされていき最後に戻ってくる。エピローグは唯一かすかな希望を見せる。

いのちなりけり(葉室麟)★★★☆☆
株式会社文藝春秋 文春文庫 第8刷 13年12月20日発行/14年02月06日読了

直木賞候補作。佐賀鍋島藩、将軍家、水戸藩、朝廷を巡る陰謀、暗殺。その中でも、和歌に託した蔵人と咲弥の恋愛小説になっているところはいいのだが、なにしろ、蔵人が強過ぎて人間業には見えずヒーロー物語になってしまう。ここを面白いというか、興ざめというか、読者により異なるところだろう。「ひとが生きていくということは何かを捨てていくことではなく、拾い集めていくことではないのか」とつぶいた。

花や散るらん(葉室麟)★★★★☆
株式会社文藝春秋 文春文庫 第4刷 13年7月25日発行/14年02月07日読了

直木賞候補作。「いのちなりけり」の続編、一気読みしてしまった。良く知られる忠臣蔵は、大衆受けするように赤穂浪士の話は吉良上野介を一人悪者にしているが、少々一般向け過ぎる嫌いがある。五代将軍綱吉の母桂昌院への叙位に絡む大奥と柳沢吉保の確執に操られた赤穂藩主浅野内匠頭の短慮からだというほうが説得力がある。蔵人が単身赤穂浪士47人に立ち向かおうとする場面は、次元の違う話で、些か勇み足ではないか。

サヨナラ(廣瀬裕子)★★★☆☆
株式会社PHP研究所 第1版第44刷 09年6月17日発行/14年02月09日読了

サヨナラはやはりサヨウナラと言いたい。ただ、残念だが、もう響く歳でもない。

総員起シ(吉村昭)★★★★☆
株式会社文藝春秋 文春文庫 第17刷 11年9月25日発行/14年02月10日読了

戦争中の国内の痛ましい事件、事故の話である。やり切れない思いがする。人間の単純なミスから沈没した伊号第33号潜水艦102名の死は、痛ましい。特に、9年の歳月を経て引き上がられた潜水艦の水没しなかった艦内から出てきた11名の遺体は凄みがある。

冬山の掟(新田次郎)★★★☆☆
株式会社文藝春秋 文春文庫 新装版第1刷 14年1月10日発行/14年02月11日読了

登山に敢えてずんぶん俗世間的な話題を持ち込んでいる。しかし、山で生死を分ける判断は得てしてこうした安易なものかもしれない、判断はこうした類のことでも大きく揺れるもの。影の原因がこうした俗世間的なものなので、作品の緊迫感は薄れるが、より身近なものでもある。

(吉村昭)★★★★☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 第16刷 11年8月30日発行/14年02月20日読了

この作家の短編は初めてではないか。史実に基づく重たいものばかり書くと思っていたが、短編も激することもなくたんたんとして素直にいいと思う。「蛍」の子供の描写は眼を瞠るものがある。

骨を彩る(彩瀬まる)★★★★☆
株式会社幻冬舎 第1刷 13年11月25日発行/14年02月22日読了

ただしんみりといい。何かを失くした人が、当たり前に過ごす人達の間で一人阻害感を抱く。朝日を受けて、きらきらと輝く銀杏の落ち葉が印象的である。

川あかり(葉室麟)★★☆☆☆
株式会双葉社 双葉文庫 第1刷 14年2月15日発行/14年02月23日読了

後半一気読みしたが、コメディータッチで青春学園ものみたいな時代劇だった。お若がとても可愛い女だった。「一筆参らせ候 くれぐれも御身大切になされたく候 お心のほど、忘れまじく候」個人的に忘れられない言葉です。

波形の声(長岡弘樹)★★☆☆☆
株式会徳間書店 初版 14年2月28日発行/14年02月26日読了

蟹の縦歩き、手作りレコードと理科の実験みたいだが、面白いトリック。蟹の縦歩きは子供を騙すことになりこの行動は些か浅はか。最後の「ハガニアの霧」はどうしようもなく駄作。

高熱隧道(吉村昭)★★★★☆
株式会新潮社 新潮文庫 第58刷 13年8月20日発行/14年02月27日読了

凶暴な自然の猛威に圧倒され、さらにそれに向かっていく人間の姿に畏怖を感じる。中国戦線が拡大する時代背景で、国の絶対的電力施策で多くの犠牲を省みずを押し進めるなか、300余人もの犠牲者と4年の歳月をかけて完成した黒部第三ダムを改めて見上げる思いである。泡雪崩という現象も始めて知った。竜巻のように宿舎の3,4階部分を数百mも運び去る猛威に言葉も出ない。暴発事故でバラバラになった遺体を、所長の根津が拾い集め畳張りで縫い合わせる場面は居た堪れない。だが、これは単に博愛精神ではなく、技術屋の矜持から工事を推し進めようとする技師と、犠牲を甘受する人夫との物言わぬ葛藤であった。ラストはフィクションということだが、技師が現場を逃げる様は、無念さはあろうが無言の圧力の怖さも十分感じられる。