小説の木々14年03月

頭の内部が、空白になっていた。自覚症状がなく血色の良い弟が、癌の末期患者であると思いたくないが、醍醐氏の言葉だけに信じないわけにはゆかなかった。窓が光り、遠くで雷鳴がした。私は、窓ぎわの沙羅の樹葉が大きく揺れるのをうつろな眼でながめていた。・・弟が手術後一ヶ月で背中に痛みを感じるようになっているのは、決して切開痕の痛みではなく、その部分に異常が生じているとしか思えなかった。秋色が濃くなり、庭の沙羅の葉が朱色に染まった。近くの公園の池に渡ってくる鴨の数も増していた。(「冷たい夏、熱い夏」吉村昭)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

遅れた時計(吉村昭)★★★★☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 第8刷 10年2月25日発行/14年03月02日読了

じっくり長編を読むのもいいが短編も捨てがたい。そんなとき吉村昭の短編集はいい。人生の一瞬を捉え普遍的な何かを余韻を含めて現す短編。「笑窪」の不可思議さは判るような気がする。「遺体引取人」の逡巡も分かる。作品それぞれにそれぞれの登場人物がその瞬間、その役を演じている。

帽子(吉村昭)★★★★☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 初版 03年9月25日発行/14年03月03日読了

男と女の物語。騙し騙されそれでも時は流れていく感じである。「買い物籠」の峯子の部屋に寄らなかった久野、新婚最初の出勤日で駅の牛乳を飲む鈴村、離婚が決まり家を出て行く前に最後の朝食を摂る川原、死んだ兄の隠し子の家に一周忌に行く小宮。微妙な心の動きの表現がうまい。

月の上の観覧車(荻原浩)★★★★☆
株式会社新潮社 新潮文庫 初版 14年3月1日発行/14年03月05日読了

「トンネル鏡」「金魚」「レシピ」老境期に入ろうとする年代で、それまでに失ったものへの限りない愛着、後悔と読後の余韻がなんともいえない。人はあのときにもう一度戻りたいと思うが、本当はどうなんだろう。淡々とそれでも時は流れていく。しばらく放心状態にあっても、かすかな再生の光も見える。

碇星(いかりぼし)(吉村昭)★★★☆☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 初版 12年5月30日発行/14年03月07日読了

碇星はW型をしたカシオペア座のことで、和船のいかりの形に似ていることから一部地方でそう呼ばれる。死に顔を見られたくないと窓のない棺を使うことを遺言する70台半ばの相談役。死がすでに他人事ではなくなっている。定年を機に家を去る妻の話。定年で束縛から離れ自由な気持ちになる人と、社会から不要とされ落ち込む人と二通りある定年後の男の悲哀を感じ身に詰まされる。

熊嵐(吉村昭)★★★★☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第46刷 13年11月15日発行/14年03月08日読了

大正四年に起きた死者6名重軽傷3名の苫前羆事件を扱った史実フィクション。我々は単に餌であると自覚する区長、羆の恐ろしさがヒシヒシと伝わってくる。最新式の銃を持つ分署長を筆頭に、数十人の銃携行者を含む二百人の応援者が右往左往する様がいかんともしがたい。先住の羆が人間を襲うというより、人間が羆の住む領域を侵した結果とはいえ自然の脅威に人は小さい。羆を知悉した銀オヤジにしても羆の恐ろしさを十分知っていた。羆を扱った「ファントム・ピーク」に比べ底恐ろしさを感じる。

警官の条件(佐々木譲)★★★★☆
株式会社新潮社 新潮文庫 初版 14年2月1日発行/14年03月10日読了

前作「警官の血」の続編。このところ短編中心だったので770ページには若干臆したが、テンポもよく引き込まれて読んだ。キャリアとノンキャリア、担当係り同士の張り合い、組織内の抗争と、薬物取締りの息詰る非情の現場。警官のホイッスルの吹鳴が印象に残る。

月夜の魚(吉村昭)★★★☆☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 第8刷 12年6月10日発行/14年03月12日読了

「生まれた赤ちゃんが育っていくということは、一日一日死に近づくということなの?」「みんな行列しているんだね、死ぬ日に向かって」まさにその通りだが、甥の俊介は、皆が平気で生きていることに素朴な疑問を持つ。離婚を扱った話も多いが、男女の別れの形はさまざまだが、夫婦という男女の結びつきが異様に見える。ふと立ち止まりたくなる。

秋の街(吉村昭)★★★★☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 初版 04年8月25日発行/14年03月15日読了

仮釈放を控えた男を社会見学させる刑務官、重病患者を故郷に送り届ける寝台自動車の運転手、変死体の解剖を続ける検査技師、無菌マウスを飼育繁殖させる研究員、変わった職業を描く短編で、それぞれに興味深い目線を感じる。若くても死亡保険伊加入するのは、毎日接する遺体で死を身近に感じ、死が医学判断や予測を超えて訪れる確率が高いを感じるからだという。「さそり座」、「花曇り」は短編の中に男女の機微がよく滲み出る。

人質の朗読会(小川洋子)★☆☆☆☆
株式会社中央公論新社 中公文庫 初版 04年2月25日発行/14年03月16日読了

人質8人が全員爆死する悲劇が、それぞれの人質の思い出話の朗読にどんな必然性があるというのだろうか。人質生活はもっと過酷ではないのか。明日をも知れない人質生活でお互いに思い出を話すのは悪くないが朗読とは何か。そもそも人質に通信手段となる筆記用具を与えるわけがないし、問わず語りならまだしも朗読のために全員が一人数十ページの物語を板切れに書けるか。その他、個々の表現にも疑問な点が多い。「8人の朗読会が2カ月間」「板切れにピンや針で物語を書いた」、「板切れから筆跡鑑定」、「紙には何で書いたのか」「紙不足といいながらページをめくる音がする、一体何枚持っているのか」。作品中にも「パチンコをしに行ってコイン」「水筒はどこへ」等々。単なる短編集に奇を衒った人質事件をとってつけたようでその真意が不明。背景がこのような人質事件でなければまだ読めたかもしれない。

冷たい夏、熱い夏(吉村昭)★★★★☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第24刷改版 13年11月25日発行/14年03月18日読了

弟が矜持を捨てた瞬間だった。それほど一年間の癌の痛みとの闘いは凄絶だった。告知するのがいいのかどうか正直分からない。弟への深い愛情を感じる。廻りの者が癌を知らせずに看病するのも一層痛ましい。

死顔(吉村昭)★★★☆☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第3刷 13年11月20日発行/14年03月19日読了

遺作短編集。「ひとすじの煙」は「霧の坂」(中公文庫「蛍」収録)と同内容。「二人」「死顔」には「干潮」(中公文庫「月夜の魚」収録)にもあるが、父が死んだ折兄を呼びに行ったときにみた隅田川の干潮の様子が三度語られる。何度も肉親の死を見てきた拘りがみえる。今ではお別れの儀式として他人でも棺に花を入れるとき死顔をみることが多いが、死顔は他人には見せたくないという気持ちも死への拘りであろう。

破船(吉村昭)★★★★☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第26刷改版 12年6月25日発行/14年03月24日読了

痩せた土地からの雑穀と、少ない漁獲で生活する十数戸の寒村。当然それだけでは家族が食べていけず、親や子が年季奉公の身売りをする。海水から塩を採り隣村へ売りに行くのも生業の一つだが、時化た夜の塩焼き行事は塩を得るためだけではなかった。村人全員が神からの授かり物を受けたように興奮し狂喜する様が異様である。圧倒的な迫力で迫ってくる。

サクラ咲く(辻村深月)★★★☆☆
株式会社光文社 公文社文庫 初版第1刷 14年3月20日発行/14年03月26日読了

青春学園物ですね。「世界で一番美しい宝石」が謎掛け風で、作った童話も単純なハッピーエンドではなかった。立花の心を理解し、捉えることができた。

黒部の太陽(木本正次)★★☆☆☆
信濃毎日新聞社 文庫 第20刷 12年8月10日発行/14年03月26日読了

「高熱隧道」(吉村昭)を読んで、映画にもなった「黒部の太陽」も読まなくてはと追って読んだ、が失望。黒四では破砕帯にぶつかり、ここを突破することに最大の苦労が描かれているが、時代背景も資材機材も異なるので比較するのはできないにしても、171人の殉職者を出したそのドロドロとした必死さや閉塞感が一向に出てこない。まるで殉職者は数人であるかのような錯覚を起す。

仮釈放(吉村昭)★★★★☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第25刷改版 13年2月15日発行/14年03月28日読了

仮釈放制度が云々ではない。懲役が罪に対する罰として、罪を罰で償うことはそのまま反省なり改悛の意ではない。社会復帰が人間性への救済策としても、すべての犯罪者が一律に改悛して社会復帰するわけではない。元高校教師の男は、妻の浮気を目の当たりにして、相手の男を傷つけ妻を殺す。さらに相手の男を殺そうとしてその母を焼死させる。その殺人に対しても、いわゆるキレるタイプではない。無期懲役の刑に対して15年の服役で仮釈放となり、社会復帰の道も見え始め、回りからも反省していると理解されるが、自身殺人への反省の気持ちは起こらない。この他人からは見えないギャップが悲劇を生む。やり切れないところである。罪を贖うため社会的罰を受けるが罪が消えるわけではない。