小説の木々3(小説に出てくる木々)

  そこそこに樹木を登場させている。しかし、ここで何の木を使うかなんて、小説家は考えているのだろうか。なんでもいいような気もするし、やはりここはこの木しかないような場面もある。ストーリとは別にこんな見方もありかなと思う。
  天童荒太の「家族狩り」(新潮文庫、全五冊)をまとめた。この本は最初に悩み電話相談の会話がある。ただし、第五部のみ終わりに。また、日付があり、2003年の重すぎる八重桜で始まり、ちょうど一年後の2004年の葉桜で終わる。日付の進行とともに様々な樹木が出てくるが、現代の悩みと、そこに関わる人間たちの背景としてつづられる。

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

ジャンプ(佐藤正午)


 日本全国で一年間に自分の意志で姿を消してしまう人間は7万人とか。ガールフレンドの南雲みはるは、酩酊した僕を自分のアパートに残したまま、明日の朝食のリンゴを買いに出掛けたまま失踪する。再び会うのに5年の月日が過ぎる。
 「僕はテーブルのサンドイッチから暮れなずむ外の景色へ、窓越しの桜の枝へともういちど視線を投げ、およそ半年前、まだ世間が花見気分に浮かれていた季節の、南雲みはるとの偶然の出会いに思いを馳せた」
 「僕たちの背後には樹木が等間隔で植わり、(ポプラの木のようだ)、その背後には大きなマンションが聳え立っていた」
 ネタばれはできないので細部は省略するが、5年もの間追った失踪の事実とは。これじゃ、やってられないよね。

海を抱いたビー玉(森沢明夫)


 ネコバス、いすゞ自動車のボンネットバス、BX341を巡る少年の心を持ったような事実に基づく小説。BX341はポンコツとして売られていく。「清ともう会えないの」・・・楠は言う。「とても古いモノや、人の気持ちを一身に浴び続けたモノには『魂』が宿っていくんだよ。だからキミも、そうやって『生きて』いるんだよ」
 「神社のまわりは樹齢三千年ともいわれる巨大な楠の森だ。この森のなかには、とくべつに清澄でおいしい空気がいつも流れている。とくべつな空気を生み出しているのは、神様ではなく楠の巨木たちだ。彼らはいつも悪い空気を吸い込んでは浄化し、いい空気をどんどん吐き出してくれている。そうそう、彼らには『魂』が宿っている。人間には分からないみたいだけれど、ボクにはそれがわかる。近くに行けば、なんとなくだけど会話だってできるのだから」
 2004年10月23日(土)午後5時56分、山古志村を地震が襲った。「この先の道は破損している可能性がある。五木は用心して、川となった小径からそれ、あえて林の斜面のなかを歩き始めた。の落ち葉をさくさくと踏みながら、急ピッチで歩を進める」「五木は息を呑んだ。林のすぐ下を通っていた先ほどの小径が、いままさに崩壊して、谷底に滑り落ちていったのだった」同じ頃息子の文吉も「余震が強いときは、うちの玄関の前に生えている大きなイチョウの樹が根元からしなるように揺れた。それはまるで襲いかかってくる巨大なお化けみたいで、ちょっと怖かったけれど、僕はなぜかその樹から目を離せなかった」
 山古志村の地震にあった子供たちを癒したのは、BX341だった。そのBX341と始めに辛い別れをし、今では大人になった清が、手のひらの青いビー玉をみて、「お帰り、わしも運転手になったけん」と、青いビー玉が時代を越えて運命に導かれながら旅をしていく。

木もれ陽の街で(諸田玲子)


 昭和26年、戦災にあわなかった東京荻窪の街、珍しい時代設定である。背景に与謝野晶子を配して、ひたむきな恋を描く。「開け放した硝子戸の向うは初秋の庭だ。秋桜と芙蓉と四季を通して青々とした糸杉の木立と」この頃荻窪は緑多い、中流家庭の住宅地だった。「荻窪の住人は季節の移ろいに敏感である。坂を上がって来る途中、ドウダンツツジが鮮やかに紅葉していた」
 大叔母の原子がおかしくなった。「一日大雨が降ったので桜はあらかた散ってしまったが、石楠花木蓮が咲き乱れ、新緑が瑞々しい季節である」誰もが原子の老いらくの恋を温かく見守っていたのだが。「庭の片隅には井戸があり、井戸の傍らに遅咲きのが満開の花をつけていた」原子の相手の城石はすでにこの世の人ではなかった。
 公子は中産階級のお嬢様として、危険で破滅型の男には付いていけなかったし、与謝野晶子のような逞しさもない。危険な男との暮らしより、郊外生活者として平凡であることを選ぶ。


 この本には具体的な樹木の名前は出てこないが、背景に木々がある。
「蜷山の麓にはもうすぐ紅葉の季節がきて、ちょっと赤くなっただけの紅葉を見にたくさんの人がやってくる。そして冬になれば雪が積もり、スキー客だけだ」こんな山に今あたしは(13歳のなぎさ)は、あるものを見つけに引きこもりのだった兄と上っている。「山の傾斜がきつくなってきて、あたしたちは少し息を乱し始めた。しばらくすると視界がぱっと開けた。樹木の密集が薄まって、古ぼけた木のベンチが一つだけ傾いて置かれている場所に出た」
 「窓の外はすごい嵐になった。時計を見るとまだ夕方になるかならないかという時間なのに、空は真っ暗で、大粒の雨がひっきりなしだった。校庭の隅で木々がいかにも折れそうに揺れていた」藻屑が言った。『この港町には、十年に一度、天気予報にはない大嵐がくるんだよ』、「鮮やかな緑と、くすんだ海の色。夕闇が迫って、田圃と海を少しずつ別の色に染め替えようとしていた」
 『好きって絶望だよね』、藻屑は「愛して、慕って、愛情が返ってくると期待していた、本当の親に・・・。この世界ではときどきそういうことが起こる。砂糖でできた弾丸では子供は世界と戦えない」

誰よりも美しい妻(井上荒野)


 「今、園子は電車の中にいる。ドアに寄りかかって立ちながら、車窓の並木道の銀杏をの木の上に、聡介の恋人たちの数を数えた。ある日始まり、ある日終わったことを知る数々の恋
 「言われてはじめて、園子は、車が錦繍の山道を走っていることに気がついた。折りしもカーブを曲がり、滴るような楓の赤が視界いっぱいに広がった
 息子の深が言う。「お母さんは何でも許すし、何があっても平気そうにしているけど、それはお母さんがえらいからじゃないと思う。ただお母さんは怠惰なだけなんだよ」修羅場はない、しかしそれがかえって不穏なのだと。


 第一部は2003年4月27日(日)から5月3日(土)まで。「東京、新宿区の落合付近にある小さな公園の八重桜が満開だった。厚く重なり合った花びらが、街灯の光の中で、幻想的な色合いに浮かび上がっている」「街灯の光がわずかに届くあたりに、八重桜の木がある。視線の先で、花のひとつが突然崩れるように散った。重なり合っていた花びらがちりぢりに舞い、雨にけぶる光の奥に消えた」「游子はしかし八重桜が好きではない。淡白なソメイヨシノに比べ、ほぼ一ヶ月遅れで満開となる花は、濃厚で、複合的な美しさを感じさせる一方、美を無秩序に集め過ぎて、毒々しい肉腫のように見えてしまう」児童保護センターの游子は児童虐待を思うと八重桜は重たすぎた。
 「窓の外は、すぐ隣家の塀だった。塀の向うに椎の木があり、繁った枝葉のあいだから隣家の二階がのぞけるが、今は明かりがなかった」浚介には、隣家でこれから起きる惨劇を予測できたか。
 「公営団地の周囲には、ツツジが植えられ、赤や紫の花が満開だった」「外は雨が上がり、ツツジの色がぼんやり見きわめられる程度に、空は白んでいる」先の見えない馬見原はツツジに何を見ていたのか。「前方にケヤキの大木が見えてきた。東京都の保存樹であるその木の脇で塀が切れ、病院の門が開けていた」精神的に病んだ妻を迎えに行く刑事の馬見原。「ツツジと、そのあいだに忘れな草だろうか、空の青さに似た色の可憐な花が咲いていた」「サツキが満開で、濃い紫色の花が美しいというより、やや色が強過ぎて気味が悪いほどだった」
 「すぐそばの家の庭には、タイサンボクが植えられ、塀越しに純白の花が咲いているのが見えた」DV、幼児虐待、でも当の被害者はそれを受けながら共通して虐待者を庇う傾向があった、そして皆病んでいる。五部作の第一編である。
 たまたま、この本の直前読んだ「ステップ(重松清)」と同じ男親と娘の二人暮らしであるが、まったく正反対であるのがちょっと悲しいが。

遭難者の夢(天童荒太)


 家族狩り第二部。第二部は2003年5月5日(月)から7月1日(火)まで。「信号で停車したとき、道路脇の公園に八重桜が見えた。花はすべて散っていた」「暗い街灯にてらされたなかを、彼女たちが暮らす棟まで、ゆっくり歩いた。ツツジはもうほとんど花を落としていた」。日付がなくても花や樹木の状態で季節や時期が分かる。
 「四階の部屋の窓に、影が映る。とっさにハナミズキの木の陰に隠れた」「公営団地の庭の一部に植えられたクチナシの花が満開だった」退院した妻の佐和子にも言えず、馬見原(まいはら)は虐待を受けた研司に「お父さん」と呼ばれる。
 「さらりとした風が吹き抜け、クチナシだろうか、甘い香りが鼻先をかすめていく」「八重桜が満開の頃、游子(ゆうこ)は彼の娘を保護した」児童相談センターに勤める游子は父親から虐待を受けた娘を保護したが、娘は父親のいる家に帰りたがる。
 事件から建ち直すため俊介は近所に子供がいない郊外に引っ越す。「椿の木だろうか、野放図に伸びた植木の塀があらわれた」「庭に植えられた紫陽花の上にも、雨は容赦なく叩きつけ、すでに枯れかけていた花びらが、力なく地面に散り落ちた」再び俊介の周りで、第二の事件が起こった。

贈られた手(天童荒太)


 家族狩り第三部、2003年7月3日(木)から7月22日(火)まで。「馬見原(まみはら)は庭の隅に目をやった。紫陽花が植えられているが、花はもう枯れ落ちている」刑事の馬見原は自身の家庭崩壊い手を付けられずにいながらも、父親から虐待を受けた研司に関わっている。「植え込みに咲いた芙蓉の青い花が、ぼうっと浮いているように見えた」
 「渡り廊下の途中から横にそれ、塀沿いに植えられたジャスミンの木々の前で足を止める。パクさんがいつも水をやり、剪定をしてそだてているものだ。開花の時期らしく、白い小さな花がところどころに咲いている」美術教諭の俊介は家庭が崩壊しつつある亜衣(あい)に関わっている。
 児童相談センターの游子(ゆうこ)は、父親から虐待を受けた玲子を良かれと想い養護施設に保護する。しかし、父親からは子供を返せとののしられ、その玲子もなじんでくれない
 みんな将来の解決策もみえず、できることをやっていこうともがく。

巡礼者たち(天童荒太)


 家族狩り第四部、2003年8月3日(日)から9月21日(日)まで。「まだ午前十時だというのに、蝉がうるさいほど鳴いている。養護施設の庭に植えられた、あすなろの木に止まっているらしい」游子(ゆうこ)はアルコール依存症の親と離された玲子を養護施設に訪ねる。玲子は「お父さんがわたしのためにがんばっている。だからまつよ」と言っていた。「桜だろうか、中庭の大きな木の前で、游子は門のほうへ進みかけては、戻ってくることを繰り返していた」その父駒田は、玲子を養護施設から連れ出す。
 一家心中の隣に住んでいた美術教諭の俊介は耐え切れず郊外に引っ越す。「携帯電話からの指示どおり車を進め、椿が門のように並ぶ地所に入ったドキュメンタリー番組で見るような古い和風建築の民家の前で、俊介が手を振っている」
 馬見原は妻と四国へ行く。馬見原が捜査をしている間佐和子は娘を殺されたお遍路の夫婦と話し、お遍路の接待をする。「女性も、それ以上は語らず、遠くの木々を見つめる様子だった。紅葉が色づきはじめている」ついに佐和子は馬見原に離婚を申し出る。「山門の脇の、紅葉が色づきはじめた林の手前に、夫を見つけた」

「窓の外はすっかり暮れ、もう海も見えない。車内をぼんやり見回すうち、行楽シーズンに家族旅行を誘うポスターが目に入ってきた。美しい紅葉の下で、父親が男の子を肩車し、そばで母親が寄り添っている」息子を事故で失った以来、社会にはこうしたデザインが、無神経なほどあふれていた。

まだ遠い光(天童荒太)


 家族狩り第五部、2003年9月22日(月)から4月10日(土)まで、いよいろ最終章。土曜日夜三時半まで一気に読み終えた。駒田に刺された游子は、薄れゆく意識の中で俊介の『絶対に死なせねえぞ』という言葉を聞いた。「エレベーターで一階に降り、緑がやや色を変えてきた中庭へ出る。すでに紅葉した木の下に置かれたベンチに、紅葉よりも鮮やかな赤が見えた」游子の傷は快方に向かっていた。
 妻の佐和子の再々入院後、馬見原は仕事への意欲を失っていた。だが、佐和子に、やる気を失った姿は、かえって彼女を責める行為に映ると言われた。「いい香りですね。キンモクセイですか。大野が、深く息をしてあたりを見回す。言われるまで、馬見原は気がつかなかった。深く息を吸うと、確かに甘い香りを感じる」大野が馬見原の家の白蟻診断に来る。
 「コミュニティー・ルームのすぐ外に立つ、イチョウの葉が音もなく散ってゆく。夕暮れにはまだ間があるのに、日差しは薄く、落葉も寂しげに映った」入院した佐和子は病気を抱えながらでも生活してゆけないかを話し合っていた。馬見原は撃たれる。

「道路沿いに大きな公園があり、桜並木が見える。東京ではもうソメイヨシノは散ったが、北陸ではちょうど満開の時期らしい。寒い地方で華やかな色を目にすると、あらためて新しい春が来たことを実感する」綾女(あやめ)には新しいことが起こりそうな予感である。「公園の桜はもうほとんど散っている。わずかに残っている花も、若葉に押されて、じきに落ちてしまうだろう」馬見原は交通事故で亡くなった息子に自分の意志を押しつけるような真似をしたのかもしれないと思う。「誰かが呼んだ気がして、振り返った。風が出たのか、葉桜が柔らかく揺れている。また明日と言われた気がした」馬見原はうなずく。ああ、また明日だ、と。(完)