小説の木々10年5月
「名もない草」や「名知らぬ花」でごまかしてきた身を顧みれば、草花の名に疎いことで人生の楽しみをひとつ棒に振ったような、悔いが胸をよぎらぬでもない。絵の具の黄と青を混ぜると緑になる。見送った春の黄色(菜の花)と、先に待つ夏の青(青空)、絵の具二つを混ぜたように5月は緑の美しい季節である。(読売新聞5月4日「編集手帳」)
つやのよる(井上荒野)★★★☆☆
株式会社新潮社 新潮社 初版 10年4月30日発行/10年5月5日読了
「つや」というので通夜かと思った。艶(つや)という名の女性が危篤になり、夫の松生(まつお)は生前艶と何らかの関係があったと思われる男に知らせる。「ガラスの向こうを這う蔦の葉の枝ぶりまで、誰かが毎日細心に整えているのではないか、と思わせられるほどだった」
その妻が、娘が、恋人が、「あなた、艶さんとどんな関係だったの?」と男を見つめ直す。実は当の本人の松生自身が何故妻子を捨ててまで艶と過ごしたか、一番分からないでいる。薄ら寒い限りである。
「家は祖父の土地に建てた小さな二階屋だった。玄関横の石榴の木が赤い花をたくさんつけていた」
槍ヶ岳開山(新田二郎)★★★☆☆
株式会社文藝春秋社 文春文庫 新装第1版 10年3月10日発行/10年5月10日読了
新田二郎作は「孤高の人」からであるが、元々歴史物は読まずにいてこれは読み残していた。左程にドラマチックではないが肩の凝らない読み物として楽しめる。。「その辺りに芳香がただよっているので探すと、辛夷が群生していた。いっせいに咲き出した白い花が風にゆれていた」百姓一揆のさなか女房のおはまを誤って槍で殺した岩松。それからの人生はおはまへの懺悔であった。「庭に立って山を見上げると、ところどころに朱をばらまいたような赤味があった。ナナカマドがいち早く秋のよそおいを見せはじめたのであった」俗世のしがらみや誘惑に苛まれながらも笠ヶ岳を再興し槍ヶ岳を開山する。
あすなろ三三七拍子(重松清)★★★☆☆
毎日新聞社 第1版 10年3月15日発行/10年5月16日読了
普通の45歳のサラリーマンが廃部寸前の大学の応援部に出向、めちゃくちゃな想定である。でも行ったら行ったで頑張るのがこの年代か。「少し色づいてきた銀杏並木の遊歩道を、学生会館に向かって進む」親子ほども離れた団員と中年親父の結束。誰かのために応援する、誰かから応援される、それが人生。
セシルのもくろみ(唯川恵)★★★☆☆
株式会社光文社 初版 10年2月25日発行/10年5月20日読了
たまには軽いものをと思い本屋の平置きから選んだ。カバーが「ダブルファンタジー」に似ていたから?「女はみんな、心の中にセシルが棲んでいる」フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」のセシル、父の再婚相手を自殺に追いやるセシルである。「女は女がいるから美しくなれる。もし自分を見るのが男だけだったら、女はきっと男受けするだけのダサい女になってしまうだろう」少々怖いところだ。「クレマチスやクチナシといった夏の花が咲いていた」平凡な専業主婦だった奈央がアラフォー向けのファッション雑誌のモデルになり、どろどろした女の競争の世界、家庭と職場の世界に入っていく。
魔笛(野沢尚)★★★★★
株式会社講談社 第5刷 05年12月15日発行/10年5月22日読了
まず冒頭から爆弾テロで圧倒される。オウム真理教を下敷きにしているので社会的にはいかがなものでは、との理由から賞を取れなかったようだ。しかし、小説としては最後まで息をつかせない迫真の内容である。「春雨に濡れた梅の花が咲く道から、受刑者の搬送車輌が甲府女子刑務所の通用門に滑り込んでいく」刑事鳴尾の妻は獄中にいた。鳴尾は爆弾テロ犯照屋礼子が残すヒントを頼りに徐々に狂気に付き合う羽目になる。300人の子供の命を吹き飛ばす10kgのプラスチック爆弾を止めるのは赤のコードか黒のコードか息詰まる一瞬。そして残された最後のプラスチック爆弾5kgは。「庭の紅葉が、赤子の手のような葉を広げていた」。
砦なき者(野沢尚)★★★☆☆
株式会社講談社 講談社文庫 第6刷 04年8月5日発行/10年5月24日読了
野沢尚2004年 事務所マンションで首吊り自殺、44歳没。惜しい人を亡くした。「砦なき者」は「破線のマリス」の続編で首都テレビ報道局放送センターのキャスター長坂、ディレクター赤松が再登場する。報道被害とメディアが育てたいびつな大衆の総意。八尋は完璧だったが、自分の味方だったはずの大衆の総意は思わぬ方向に進んだ。宮部みゆきの「模倣犯」を髣髴とさせる。八尋の実像は徐々に暴かれるが、大衆は何も変わらなかったのではないか。
光媒の花(道尾秀介)★★★★☆
株式会社集英社 第1刷 10年3月30日発行/10年5月26日読了
6つの小編からなる連作で、それらが直接、間接に絡み合い、一匹の蝶が密かに舞う。「水楢の木漏れ日の中によく映える建物で、部屋の中はいつも甘い木の匂いに満ちていた」虫が花粉を運ぶのは虫媒花、風・空気が花粉を運ぶのは風媒花、光が媒介する人生花。「しばしの沈黙があり、窓の外から甘酸っぱい香りが入り込んできた。沈丁花のようだ。アパートの外に、そんなものが植わっていただろうか」しみじみといい本である。もうだめだと思った。「運転席を降り、公衆便所へ向かって内股で急いでいると、植え込みの隅でアジサイが雨に打たれているのが見えた」少女は本音で話したかった。「「サンゴジュの植え込みの隙間から、朝代はいきなり石を投げつけたらいい」皆それぞれの苦悩を胸に抱えていた。それでも世界は続いていた。
アイガー北壁・気象遭難(新田次郎)★★★☆☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第33刷 10年3月20日発行/10年5月30日読了
新田次郎の山岳物は「孤高の人」から始まって昔全部読んだと思っていたが、それとも記憶にないのか。事故は起こるべくして起こる。「春の象徴であるコブシの花が、尾根沿いの日当たりのよいところに群れをなして咲き、そのコブシの白い花にまじって、谷川だけ特有の、紅桜が咲いていた」不思議なもので昔はコブシの名は知っていたが花は知らなかった。こんな文章に出会っても、単に白い花として読み過ごしていた。「ふたりはカンバの木につかまったまま、岩壁上に足場を探した。が次の瞬間、ふたりの身体は彼等の上部からなだれ落ちてきた雪塊に押し流されて断崖を白馬雪渓に向かって落ちていった」