小説の木々10年6月
「名もない草」や「名知らぬ花」でごまかしてきた身を顧みれば、草花の名に疎いことで人生の楽しみをひとつ棒に振ったような、悔いが胸をよぎらぬでもない。絵の具の黄と青を混ぜると緑になる。見送った春の黄色(菜の花)と、先に待つ夏の青(青空)、絵の具二つを混ぜたように5月は緑の美しい季節である。(読売新聞5月4日「編集手帳」)
リミット(野沢尚)★★☆☆☆
株式会社講談社 講談社文庫 第16刷 06年5月29日発行/10年6月4日読了
「土手の桜並木は春になると桜色のトンネルで、息を切らしながら家に帰ると、頭に桜の花びらをいっぱいにかぶっていた」いつもの「息詰まる」展開はいいが、銃撃戦はいささか興を削がれる。公子が息子を誘拐した犯人グループ3人を次々に銃で殺していく過程が非現実的で、物語が佳境に入るのに反して一挙に興醒め。「とっぷりと暮れた窓の外では、白樺の樹が大地からちぎれんばかりに風にあおられていた」最後のどんでん返しが霞んでしまった。
乳のごとき故郷(藤沢周平)★★★☆☆
株式会社文芸春秋 文芸春秋 第1刷 10年4月25日発行/10年6月8日読了
久しぶりのエッセイである、藤沢周平のエッセイは初めてだが確かに故郷を想うものが多い。「やがてわりあい幅がひろく平坦な道がどこまでも続き、左右にブナの巨木が目立つようになった。ブナの木は、空を隠すほど高いところまで枝葉をさしのべ、林の奥でツツドリの啼く声がした」しかし、その故郷を捨てた人間が何を言うかと・・・。「夏の間はにぎやかな土地であるが、そのときは海水浴の季節も終って、海辺には人影もなく、赤い実をつけたハマナスの群生だけが目立っていた」室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を連想した。
呼人(野沢尚)★★★☆☆
株式会社講談社 講談社文庫 第12刷 05年12月1日発行/10年6月12日読了
目次をみたとき5つの12歳があったので、少年時代ものの連作かと思った。「頭上を樹冠で覆われ、ぎらぎらしていた太陽が木漏れ日になった。時折、涼しい風が葉影を揺らして、坂道を漕いできて汗だくになっていた頬をひんやりとさせてくれる。午前中のにわか雨で森が生き生きと輝いていた」そんな一人だけの、12歳で成長がとまった久我呼人(よひと)であった。「庭のあじさいが恐る恐る咲き始めていた」これは終わり方が難しいだろうなと思いながら読み進めた。「見上げると。金色のブナの葉に包まれた峡谷があった」彼だけは皆が失った12歳をいつまでも持つことができた。
二本の木(小沢爽、小沢千緒)★★★☆☆
日本放送教会 NHK出版 第1刷 10年5月25日発行/10年6月14日読了
「ゼウスが貧しい身なりで老夫婦を訪れる。老夫婦は気持ちよく貧しい身なりのゼウスをもてなす。ゼウスはお礼に願いがあれば叶えて上げようという。老夫婦はこう言った。私たちは老いました。もうあまり望みはありません。しかし、どちらかが一人残されることには耐え難いできることならてを携えてあの世に行きたい。ゼウスが去ってから老夫婦がふと気がつくと、並んで座っている二人の足首から根が生え、足は下から木に変わっていき、やがて腰へ、お腹へと木に変わってゆく。最後はそうやって見つめあう二人の目も木の皮に覆われていく。いつしかそこには樫になった夫と菩提樹になった妻がいた」二本の木のギリシャ神話である。肺癌を病んだ妻とそれを支えながらも後追いの胃癌で同年に逝った夫。辛いけど穏やかな最期であった。一緒に散歩もできなくなった妻に散歩の様子をメールする。「谷間の木道は落ち葉の敷物だ。欅、葛、くぬぎ、桜。メタセコイヤはまだ濃い緑色。斜光の長い影。噴水広場の南京ハゼとドウダンツツジが赤い」妻は一緒に散歩をした気分になり涙する。
左手に告げるなかれ(渡辺容子)★★☆☆☆
株式会社講談社 講談社文庫 第25刷 10年5月20日発行/10年6月20日読了
江戸川乱歩賞受賞作というので期待したが・・・。緊張感がなく警察の介入もまったくなくどうしてここまでできるの?ダラダラと小出しにしていく流れはいただけない。物語の謎も最後に犯人にすべてしゃべらせるのではなんのミステリーかと思う。結果としてどんでん返しにもなっていない。よっぽど保安士の仕事の方が緊張感があったし、こちらで書いたほうが面白いのではと思った。
烈火の月(野沢尚)★★★★☆
株式会社小学館 小学館文庫 第3刷 07年10月30日発行/10年6月23日読了
今回のドンパチはまだしも。「中庭の色づき始めた銀杏の木が正面に見える。『ああ』と我妻(あずま)は応え、窓外に目を転じる。緑の中に点々と黄色が見てとれた。総武快速列車のホームに、どこからか黄色一葉が紛れ込み、風に舞っている」ビートたけしの「その男、凶暴につき」の原作?である。映画は見ていないが、映画ではない小説ゆえの表現があるところが小説のよさ。「生きろ、この世に生まれてきたんだ。だから最後まで生きろ」マトリ(麻薬捜査官)の瑛子が禁断症状に苦しむとき我妻は言う。娘の美帆が特別養護施設に送られるとき、不器用に我妻に見せる不安と情愛。しかし我妻はそれを不振り払う。「涙の薄膜に覆われた我妻の目は、黄色く滲んだ」
ダーティ・ワーク(絲山秋子)★★★☆☆
株式会社集英社 集英社文庫 第1刷 10年5月25日発行/10年6月25日読了
短編ではなく連作、後半から複雑に絡み合う人間関係に思わず前を読み返す。熊井はTTに対して取り返しの付かないことをし、TTは姿を消した。巡り巡って、TTは熊井がギターを持ってモデルをしている写真をみる。最終章は突然、熊井の気持ちを表すかのように「ですます」調に文体が変わる。「森に守られている気がしたのです。長い生命を持った木々たちの奥には獣が冬の間ゆっくりと眠り、夏になれば昆虫と鳥たちが帰ってくるだろう、そう思いました」
制服捜査(佐々木譲)★★★☆☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第6刷 09年11月15日発行/10年6月29日読了
道警察の役人らしい現場を顧みない人事の結果、川久保は田舎町の駐在所勤務となる。しかしここでも地元の犯罪を起こさないではなく犯罪者を出さない閉鎖性と制服警官の制限が障碍となり立ち塞がる。「工事現場のさらに南側、道路をはさんだ区画には、イチイの巨木に囲まれた和風の屋敷がある。積み上げられている丸太はカラマツ材だった」樹木は北海道らしい。途中既視感を感じた。直木賞の「廃墟に乞う」に肌触りが似ている。