小説の木々10年8月
創立してから何十年もの時が流れているこの高校は、校舎全体がくすんだ色をしている。にわかに華やぐのは桜の季節だけで、その時期もすでに終わっている。花をすべて散り落とした校庭の桜の枝には代わりに新緑が生まれ、青空の下で瑞々しい光を揺らせていた(「ナラタージュ」島本理生)
小さなおうち(中島京子)★★★☆☆
株式会社文芸春秋 第1刷 10年5月30日発行/10年8月1日読了
「こじんまりとしているけれども風情があって、赤い屋根が目に映えるその家は、近隣の目印になっていた。花の季節には沈丁花や金木犀が忘れられない匂いをさせたし、玄関脇の楓と、ななかまどの紅い実は、秋にはまばゆく色づいて、美しい屋根と調和した」戦前から戦後に掛けての郷愁とモノクロの世界で赤い屋根と木々だけが色付いている。女中のタキが綴る想い出が赤い屋根の家の歴史だった。
昭和16年戦争が始まる直前、「庭の金木犀が香水のような匂いをさせる季節だった」、昭和18年戦争が息詰まった頃「庭は、また、オレンジ色の金木犀が、よく香る季節になっていた」、昭和19年3月「よく晴れた冬の日の午後で、お庭には白い椿が咲いていた」、昭和20年春「猫柳が綿帽子をつけ、万作の黄色い花が咲いていた」、流れていく季節を感じる。
記念館の建物が大叔母が愛した赤い屋根の家であることは明らかだったが、甥の健史は事実を公表する気をなくしていた。歴史はその人それぞれのものでそれぞれの心の中にだけあればいい。
名残り火(藤原伊織)★★★☆☆
株式会社文芸春秋 第1刷 10年6月10日発行/10年8月8日読了
「彼は、大学近辺のポトマック川沿いの新居を探してくれました。ジョージタウンは、全米でも最古の街のひとつで、古めかしいおちついた家並みの美しさはちょっと例がありません。おまけにそのころは桜の季節で、桜が満開だった」しかし、この奈穂子を中心に、事件が起こり広がっていく。
流通業界の裏側を鋭く批判し、サラリーマン人生の悲哀も綴る。吸収合併された職場、早期退職した生活環境。堀江の「名残り火」が強烈に燃える。そんな堀江は、一番の友人であった柿島が路上暴行で死んだことを知る。非合法的に真相に迫っていくが、それは復讐という終息に向かっていく。
ランプコントロール(大崎善生)★★☆☆☆
株式会社中央公論新社 初版 10年7月25日発行/10年8月10日読了
「ボッケンハイムの部屋の窓から、毎日毎日、飽きるほど眺め続けたマロニエの木を見ながら僕は考えた。理沙のいない人生を過ごしていく自分はこれまでとは違う人間なのだ。それが、人と人が別れるということなのだ」前作のレイルウェイは失望した。こちらの方がいつもの大崎らしいが、最後の希望は捻りがない。一生懸命やったから奇跡が起こったでは安易過ぎないか。
ドイツ娘のステファニーとの恋と別れは、森鴎外の舞姫を思い出させる。シンディ・ローパーの「Tim After Time」が何度も何度も流れる。「レンガ調の壁によく調和して、フランクフルトのガーデニングや窓辺には欠かせない花だった。ドイツのからからに乾燥した風に揺れるゼラニウムの赤は、僕の個々に強烈に焼き付いていた」
かたみ歌(朱川湊人)★★★★☆
株式会社新潮社 第4刷 10年6月25日発行/10年8月15日読了
ノスタルジック・ホラーというのか、戦禍も免れた東京の下町のアカシア商店街。そこにある小さなお寺覚智寺にはこの世とあの世との出入り口があると誰ともなく言われていた。たそがれ時に向こう側から石灯籠を覗くと、ときどき死んだ人の姿が見えるらしい。
7つの短編は連作となっており、最後の「枯れ葉の天使」でわずかな救いとともに、明らかになる。各編では昔の流行り歌が挿入される。私のとっても、すべて懐かしいものばかりである。ホラーと言っても、ほのぼのとする作品である。
この街に引っ越してきた久美子は思う。「家に居ながらいして桜が眺められるのが最高だと思う。反対側の窓からは都電の線路が見下ろせて、そのすぐ脇には、ほんの数メートルだが紫陽花の植え込みがある。いったい何色の花がさくのだろう」アカシア商店街にはチューリップの「心の旅」が流れ、アーケードの突き当たりの向うには眩しい春の光が満ちていた。
契約(明野照葉)★★★☆☆
株式会社光文社 光文社文庫 第2刷 10年7月30日発行/10年8月17日読了
小中学校での南欧子(なおこ)は輝いていた。誰もが、担任の先生さえも贔屓するかのように「ナオ、ナオ」と可愛がられた。それに引き換え今はなんなのだ。「なんとか、しなくっちゃ」「こんなはずじゃなかった」「でも一体今の自分に何ができるのだろう」
覚えていないことが一番罪深いし人を傷付ける。でも南欧子は桃子に一体何をしたのか。子供のしたことだからと言って安直に許すことはしない。特に何をしたか、などとそのしたことがどれだけ人を傷付けたかさえ意識も記憶もない人には。
何故何故はいいのだが、少し深みが欲しいところである。少しこの作家を読んでみようと思う。
ラットマン(道尾秀介)★★★☆☆
株式会社光文社 光文社文庫 初版第1刷 10年7月20日発行/10年8月23日読了
数少ない容疑者の中で二転三転するストーリは息をつかせない。前半に出てくるラットマンの話が最後になってようやく理解できる。「動物に並んでいるほうはネズミに見える。ところが人の顔と並んでいるほうは、おっさんの顔に見える。ほとんど同じ絵のはずなのに」
「カイズカイブキの植え込みに囲まれた葬祭場の敷地を出たとき、視界の隅で大きな人影が動いたのに気がついた」ここでカイズカイブキを持ってくるとは。カイズカイブキはよく見かける樹だが名前を知らなければ分からないだろう。
勝手に思い込んで勝手に行動した。「俺は正しいことをした」と言って姫川の父は亡くなった。「俺も同じことをしろ」そして皆ラットマンを見ていた。
さえずる舌(明野照葉)★★☆☆☆
株式会社光文社 光文社文庫 第5刷 09年11月10日発行/10年8月26日読了
島岡芽衣の目論見は人間心理を衝きうまく行く筈だった。沢崎の出現でこうも脆くそれが崩れたのは少々期待外れ、もっと徹底して欲しかった。 芽衣が死んだと知ったとき、真幌は自分でも意識せずに笑う、笑いが止まらなかった。ここをもっと掘り下げるところではないか。人間、特に女性心理の深層を抉るとするなら、掘り下げ不足である。
行きずりの街(志水辰夫)★★★☆☆
株式会社新潮社 新潮文庫 第46刷 08年9月25日発行/10年8月28日読了
ミステリーでもハードボイルドでもなく恋愛小説か、というところ。女性とのスキャンダルで名門学園を追われた元教師の波多野。東京で行方不明となった塾の元生徒を探すため上京するが、自分がどうして学園を
追われたか本当の理由を知ることになる。「幹周りはそれほど大きくないが、がっしりした枝ぶりの、江戸時代からある古木で、戦時中の空襲にも負けずにたった一本生き残った木だった」
12年前に分かれた雅子はやってみるわ、と言う。「並木のポプラが黄金細工になっていた。金色の街の朝だった。それは手に触れるものすべてを黄金に変えてしまわずにおかなかったフリギュアのミダス王の都さながら、地上の富と楽園を永遠に約束するかのように美しく光り輝いていた」
きわどく危機を乗り越え、普通の塾講師にしては格好良過ぎ。