小説の木々10年9月
朝は六時に目がさめた。眠る時間もしだいに短くなる。とりあえず起きた。雨戸を開けると、洗いきよめられた朝の光が居間の奥深くまで射しこんできた。昨夜の雨のせいで明るさや、透明度が違った。なによりも色彩がちがった。もとは農家だった向かいの家の柿が、わずか一日で色づきかけていた。その後にある寺の塀越しに、竹が白く揺れている、風が渡っているのだった。(「男坂」志水辰夫)
ひそやかな花園(角田光代)★★★☆☆
株式会社毎日新聞社 第3刷 10年8月10日発行/10年9月1日読了
幼い頃の夏のキャンプ、あれは実際に経験した記憶か、あるいは夢だったのか。「窓の外、盛大に緑の葉を茂らせたメタセコイヤの木を見る」どうして自分だけが仲間はずれにされるのか、と訝る沙有美(さゆみ)、そういう考え方をするからだろう、なんでみんな人のせいなわけ、と雄一郎は答える。角田は、苛々するような人格の人をよく登場させる。
「バスの窓から見える銀杏は、真っ黄色に染まっている。突き抜けるような空の青と銀杏の黄がこんなにも似合うことを、ふいに樹里は思い知る」
成長して出会い、あの夏のキャンプの意味を知ったことが良かったか悪かったかはそれぞれの中にある。「私、私がいてよかったって始めて思った」と、沙有美はあったこともない父にありがとうという。
女神(明野照葉)★★★☆☆
株式会社光文社 第4刷 07年4月25日発行/10年9月6日読了
美しく、センスもよく、仕事もでき、似つかわしい恋人もいる、完璧な女性として、そのシナリオ、役を演じる沙和子。沙和子にとっては、身体は道具でしかなく、見知らぬ男と寝ることも目的のための手段でしかなかった。ここまで完璧に遣り切るのに執念を感じるが、余裕も終わりがない。演じることが遊びであった。
しかし、いかに優れたシナリオでも、生きている限りやはりじわじわとシナリオ以外のものが灰汁のように溜まっていく。リセットを繰り返すしかない。本編では捕まらずに終わるが、その予兆は微かに見せる。これに感化された二人の女性がむしろ初心で未来がある。
株式会社新潮文庫 第37刷 09年11月20日発行/10年9月9日読了
「張り出した欅の茂みが外灯を遮っている。灯のあたる樹のふちだけに葉が光り、蔭下の道にひとかたまりの濃い闇が溜まっていた。そこまできて、ふいと安島が立ちどまった」男から遠ざかっていた元子の心の動揺が判断を狂わせたのか。何もかもがうまく行き過ぎたところに、油断があった。「傍らにこんもりとした潅木の植込みがあり、玄関先の灯に、小さな白い花が散らばっていた。満天星だと知れた」
最初は行金の横領、次に産婦人科医院の脱税、そして医科進学塾の裏口入学。他人の悪事は弱みを握ることで大金をせしめるチャンスであったが、元子が思うほど甘くはなかった。裏に大きな罠が仕掛けられていた。最後は恐怖ですね。
男坂(志水辰夫)★★★☆☆
株式会社文芸春秋 第37刷 06年12月10日発行/10年9月12日読了
ここに出てくる男は皆何かを抱えている。解説では「はぐれた男たち」という。「直径が三十センチもあるドロノキが、根っこを空に上げて土砂に埋まっていた光景を忘れることができない。この川が氾濫しようなどとは河岸の木々まで思ったことがないらしく、上流の自然河岸地帯ではヤナギが思うさま枝を広げていた。それらが根こそぎ流されて橋脚に引っかかり、六原橋を押し流す原因になったのだ」ドロノキなんて知らなければ樹の名前とは思うまい。
「缶ビールがひとつ手向けてあった。土のなかに埋め込んだ素焼きの花生けのなかにススキと、赤い実をつけたナナカマドの枝が挿し込んである」詳しく言わないことで余韻を残す。少ない言葉で多くを語る。しんみりとする男たちの余韻であった。
うしろ姿(志水辰夫)★★★☆☆
株式会社文芸春秋 第1刷 08年06月10日発行/10年9月15日読了
「夏を越した草木の匂いが日溜りに青臭くこもっている。空には鰯雲とアキアカネ。墓道の傍らで咲き残っているムクゲが白い花弁を散らしていた」志水辰夫の小説にはこうした風景描写がよく出てくる。物語の場面と季節を知る。「隣の家にあったヤツデがまだ健在だった。カイドウの花が咲き、アカメガシワが赤い新芽を広げている。向うで街灯の明かりをさえぎっているのはケヤキだ」
毎日、店の前を古びた乳母車を杖代わりにして通るおばあさんがいたが最近見かけなくなっていた。ある日隆治は「その横の壁に立てかけて、あの乳母車が置かれていた。それは折り畳まれ、もう何十年もそこへ放置されていたかのように赤錆び、周囲の廃物に同化しきっていた」と、おばあさんが亡くなったことを語る。そして隆治自身も来年のことが語れなくなっていた。
いまひとたびの(志水辰夫)★★★★☆
株式会社新潮文庫 第9刷 08年07月15日発行/10年9月18日読了
草花が木々が風景が、ふんだんに小説の中に現れる。それがこの小説説のテーマである死との背景であると解説はいう。「『あら、桐の花が咲きましたね』はじめて気がついたらしい。昨日から花を付けはじめたところで、小さく立ち上がった淡紫色の色が今日は一段と鮮やかさを増している。それに引き換え皐月のほうは年々淋しくなってくる。義父が亡くなって世話してやるものがいなくなったからだ」電車の中から高田馬場のホームに立っている寧子(やすこ)を見かけた。家に帰ると「寧子さんが危篤なんだそうです。駄目かもしれないって」という妻の置手紙を見る。「向かい合っているのは静寂。義父の残した皐月が咲いている」
「少し気温が落ちてきた。空の夕焼けが増してきた。野焼きの煙だろう、白いものがたなびいて地上をおおいはじめた。鳥が空を横切って行く。『あ、トンボだ』とミツオが叫んだ。アキアカネの赤い胴が夕空に閃いていた。秋を感じた。もう赤とんぼ山から下りてくる季節になった」アキオの姉が止まる筈のないバス停に止まった赤いバスから下りて来る。お盆の日に。とても幻想的な場面でした。「そして私も来年はあのバスに乗って帰ってくる」と。
赤道(明野照葉)★★★☆☆
株式会社光文社 第2刷 09年09月05日発行/10年9月20日読了
「俺の人生はこんなもんじゃない、こんな筈ではなかった」修二はいつでもそうだった。やっていることは自分を守ること。死にたいと思っていながら、本当は生きたいと思っている。現実を見ようとしなかった。バンコクの炎暑が狂わせたのではなく昔からだった。そんなことは回りは知っていたが本人だけ納得せず自分をさえごまかしていた。しかし、誰もが同じように修二のことを「バンコクの犬」と言った。
一年中炎暑、砂埃、濁った川、車の渋滞、異臭、こんなところにいればそこに溶け込めない限り誰しも狂ってくる。修二はそんなバンコクで壊れた。まあ、それでも最後には姿形を変え、タイ人のパットムが側にいたことが僅かな修二の救いだが、実際の救いかどうかは分からない。
情事(志水辰夫)★★☆☆☆
株式会社新潮社 第16刷 07年11月15日発行/10年9月22日読了
「ヒサカキ、ヤマモモ、クロガネモチ、シラカシといった照葉樹が主で、その隙間を埋めるようにツツジが群生している。アセビが釣り鐘型の白い花をつけ、レンギョウも造花のような黄色い花をそこここで見せ始めていた。斜面が急になり、ヤマザクラやクスやモクレンの木が茂っていてそこだけ日差しが消えていた。向かいの山腹でほの白いむらを作っているのはコブシの花だ。アメリカハナミズキがピンク色の花を付けはじめた」
タイトルを見た瞬間危惧はしていた、そしてその通りとなった。何故志水辰夫がこうした小説に不必要な情痴場面をしつこく書いたかだが重松清が匿名で「愛妻日記」を書きたかった心境、つまり書いてみたかっただけでか。それにしては、いやらしさがない分、毎回同じような場面で辟易する。河内の隠し金を盗んだ亜紀の容易な釈放、妻の治子と森本の怪しい関係、それを示唆する聡子の行動、警察ではなく検察特捜が追う河内の謎の資料。そしてラストの静雄の涙。いつの間にかバラバラになった家族、結局何も残らなかったことへの悔恨か。謎めいたところも今回だけは何から何まで未消化で残る。
「治子は蔵の横にある夏みかんの木に歓声を上げた。品種改良をしていなから、酸っぱくて誰も食べないのだが、毎年枝が折れそうなくらい律儀に実をつける。珊瑚樹のはがつややかに光り、遠く蛙の鳴き声がしている」
ルームメイト(今邑彩)★★★☆☆
株式会社中央公論新社 第9刷 10年7月10日発行/10年9月24日読了
多重人格同士が遭遇、42歳が18歳を演じる、ちょっと無理があるな。それを差し引いて、意外な展開はおもしろい。文庫本にしたときモノローグ4を別扱いにしているが、こんな配慮は不要でこれがなければ締まらない。大学に入学した春海と麗子はルームシェアをするが、題名はむしろこのルームメイトではなく、同一人物に複数の人格が棲むルームメイトのようだ。
笑う警官(佐々木譲)★★★★☆
株式会社角川春樹事務所 第51刷 09年11月2日発行/10年9月27日読了
「笑う」という言葉に抵抗があって今まで手にしなかったのだがもとは「うたう」警官だったそうで、うたうとは内部告発するという意味だとか。婦人警官殺しの24時間以内での解決はいささか超人的と思うがそれはいいとして、抜群のスピード感、緊張感がある作品である。こうしてみると警察小説は組織対個人の戦いに恰好であり、底知れぬ恐怖を醸し出す舞台かもしれない。
殺し屋シュウ(野沢尚)★★★☆☆
株式会社幻冬舎 幻冬舎文庫 初版 05年4月30日発行/10年9月28日読了
面白いことは面白いんだけど、どうも非現実的でこれは完全にテレビドラマ風。「自分のために生きるのが難しいなら、誰かのために生きてみろ」
生きいそぎ(志水辰夫)★★★☆☆
株式会社集英社 集英社文庫 第6刷 08年9月15日発行/10年9月30日読了
少し今ままでの志水辰夫の短編と味と言うか寂と言うか違う。「車に乗ろうとして足を止めた。赤いものが目にとまったからだ。彼岸花だった。道端の草むらに咲いていた。花の季節はとうに終わっているのに、かたちのくずれた赤い花が一輪、咲き残ってだれにも見られることなく風に吹かれていた。西の空が熟れはじめている。青が流れようとしていた。しずかで、さびしい秋だった」老いに向かう人生の秋ですね。
ちょうど今頃の季節である。「気温は二十度前後と暑からず寒からず、風も心地よくて、空には巻層雲が浮かんでいた。飛行機雲が二本もできている。門の脇のイタヤカエデが色づき始めている」「裏の生け垣にはサルトリイバラが残っていた」こんな表現も具体的で目に浮かんでくる。