小説の木々10年10月



もし、なんてないんだよ。後悔したってそれ以外ないんだよ、何も。私がやってきたことがどんなに馬鹿げたことでも、それ以外はなんにもない。それしかなかったんだから。春だった。杏もアカシアも迎春花も、いっせいに花を咲かせはじめていた。(「ツリーハウス」角田光代)

ユニット(佐々木譲)★★★☆☆

株式会社文芸春秋 分春文庫 第14刷 10年7月5日発行/10年10月4日読了

 初っ端からショッキングな事件で始まる。法律の加害者保護の傾向、残酷で特異な事件として17歳の少年にも拘らず検察送りとなり無期懲役。しかし、わずか7年で仮釈放となる。まったく改悛の様子もない元犯人に真鍋の復讐はできるか。東野圭吾の「さまよう刃」でも問われる重たい問題である。
 迫り来る危機に最後の山荘行きは安易過ぎる。「笑う警官」の作者ならもう一捻り欲しいところ。決着は物語としていささか興覚めであった。

きのうの空(志水辰夫)★★★★☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第3刷 07年7月25日発行/10年10月6日読了

 最初はそれ程でもなかったが、読み進めるうちに何かジワジワと懐かしさのような共鳴感が出てくる。最後の「里の秋」は、1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している」とある。戦後引揚者の父親を思う気持ちを歌った歌である。
 「庭の跡に大きなかやの木が一本あって、秋になるとその実がいいおやつになる」秩父を歩いたときイヌガヤが実を付けていた。「見上げると、後の雑木林のなかに幹の色を黒々と沈ませた栗の大木がそびえていた。薄茶色に色づいたいががびっしりとついていて、そろそろ落ちはじめている。草を掻き分けてみると、あるわあるわそこらじゅう実だらけだ、やや小粒ながら、焼いたり干したりすると甘くて味の濃い山栗だった。そらが赤くなろうとしていた」

降臨(明野照葉)★★★☆☆

株式会社光文社 光文社文庫 第3刷 10年3月5日発行/10年10月8日読了

 先日「世にも奇妙な物語」で出てきた「栞の恋」は朱川湊人の「かたみ歌」に掲載されたものだった。この降臨もホラーと言うよりその類で、ストーリーテリングな作品である。だれが異常で誰が正常なのか、日常に潜む心の闇、一つ間違えれば精神に異常をきたした人間。それがすぐ隣にいるという恐怖。「世にも奇妙な物語」を読んでいる気持ちになる。

恋人よ(上)(下) (野沢尚)★★★☆☆

株式会社幻冬舎 幻冬舎文庫 第3刷 05年12月10日発行/10年10月12日読了

 「庭に咲く薄紫のコスモスが夕陽に映え、金木犀の匂いがダイニングにも漂い始めた頃、彼女はきっと幸せなのだ、という結論に航平は辿りついた」ワインの淡く青い炎のような恋、完全にテレビドラマですね。
 「そして花があった。その名はサンダンカ。細く鋭角的な四枚の花びらで一つの花を成し、それがアジサイのように球形に密生する。遠目に見ると、緑の葉陰に赤いボールがいくつも転がっているように見える」沖縄県三大名花といえば、デイゴ、オオゴチョウ、そしてこのサンタンカ。サンダンカと呼ばれることが多いようだが、三段花ではなく、正しくはサンタンカ(山丹花)。珍しい花が出てきた。神代植物園で見たことがある。

飢えて狼(志水辰夫)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第10刷 08年6月25日発行/10年10月15日読了

 「食後窓際へ腰を下ろしてコーヒーを一杯飲んだ。駐車場となっている前の空き地に欅の大木が五本ばかりある。その葉陰になる夜の暗さと、梢から漏れてくる光が好きだった」誰が味方で誰が敵なのか、行き詰る展開というところか。「崖上を取り巻くグリーンのベルトは、主として広葉樹林だった。下生えには笹が密生している。白樺、楢、榛の木、枝の一部を立ち枯れにしたエゾ松もある」割り切れば面白く濃い作品。 
 殿町の射殺、順子を襲った男(檜垣か?)の射殺、平井を含む三人の男。これらの殺人罪、いつもながらの超人的活躍はハードボイルド物の宿命か。

屈折率(佐々木譲)★★☆☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第12刷 10年8月13日発行/10年10月18日読了

 企業小説とあったので、ガラス工芸家の透子のアイデアをもとに、屈折率を応用した画期的な新製品の行き詰る開発競争で苦境を乗り切る企業戦士の物語かと早合点したのが誤り。恋愛小説だとは思わなかった。確かに、商社という虚業から工場という実業へ、由香から透子へ、と屈折していくことを表しているのだろうが、恋愛の味付けが勝ちすぎ、その分底は浅い。
 ただ、屈折率が「物質中の光の速度/真空中の光の速度」、比熱が「単位質量の物質の温度を1度あげるのに必要な熱量」、というのは新鮮な言葉であった。

三千枚の金貨(上)(下)(宮本輝)★★★☆☆

株式会社光文社  初版第1刷 10年7月25日発行/10年10月22日読了

 斉木は中国タクラマカン砂漠を旅行したとき、昔の大河の跡、乾河道(かんがどう)の底に立った。「人間の生涯のなんと短き、わが不逞、わが反抗のなんと脆弱なる!」小さいときお袋と一緒に歩いていた斉木の原風景に出遭った。「お袋に手をつながれた子供の俺が河原を歩いている。河原には生い繁った丈の長い草が冷たい風でなびいている。お袋の表情は鮮明に見える。だけど俺の顔はまったく見えない」

 4人は、三千枚の金貨(時価1億円相当)の在り処に見当をつけその家を購入し二十年間掘り出さない約束をした。しかし、すでに宝探しが目的ではなく、夢を買った。とてつもなく美しい桜がシンボルツリーであった。「光生も川岸も、沙都(さと)と並んで、近くに行かなくてもきょうが盛りに違いないとわかる花々を身にまとっている老木をみつめた。大輪の桜色の花火みたいね、と沙都は言った。なるほど、桜の凄さは日の光を翳らせているかのようで、大輪の花火に見えるといっても不思議ではないなと光生は思った。桜色の綿菓子みたいだな。それもとんでもなく大きな綿菓子・・・。ワゴンから降りて来た宇津木が言った」 「こんな私でよろしければ」おどけた沙都の口調だったが、顔は笑っていなかった。ちょっと危ないナ。

裂けて海峡(志水辰夫)★★★☆☆

株式会社新潮社  第3刷 07年7月25日発行/10年10月26日読了

 「車寄せの植え込みには巨大なソテツとビロウが枝を広げていた。男が一人立っていた。わたしをみると彼は足早に近づいてきた」これが待合せていた男だと考えてもおかしくなかった。だがこの男は待ち合わせ電話を盗聴し長尾を真実から引き離そうとした国家組織の人間だった。長尾に拘った人間は皆国家秘密と言う名のもとに死んでいく。愛する理恵も、長尾を助ける花岡も、そして最後には長尾自身も。
 ハードボイルドなる物もようやく慣れてきたようだ。こんなものだと割り切って、物語の展開、謎を楽しむしかないだろう。

ツリーハウス(角田光代)★★★☆☆

株式会社文芸春秋  第1刷 10年10月15日発行/10年10月29日読了

 「黄砂がおさまりはじめた春先だったが、まだ肌寒かった。見上げると星が瞬いていた。闇のなか、咲きはじめたばかりのアカシアの花の香りが濃厚に漂っていた」翡翠飯店、そこは祖父母から始まる歴史の、藤代家親子4代が過ごした不思議な簡易宿泊所。誰が棲みついても出て行っても、いつの間にかそれが当たり前になった。「あの人も私もね、逃げて逃げて生き延びただろう。逃げるってことしか、時代に抗う方法を知らなかったんだよ。子供たちに逃げること以外教えられなかった。それしかできない大人になっちまった」批判的で自分勝手にやってもどういう訳か同じような人生になった。「どこにいったって、すごいことなんて待ってないんだ。その先に進んでも、もっと先に進んでも、すごいことはない。もう二度と同じところに帰ってこれない。出ていく前のところには戻れないんだ」と祖母は言う。
 バスジャック、新宿西口の反戦集会、昭和天皇崩御、新宿西口のバス放火、オーム教、阪神淡路地震、時代はまさに我々の世代だった。