小説の木々10年11月



そこには青空が鰯雲を西へ押しのけながらひろがっていた。空がふくらんでいるように思えた。どこかで草が風に鳴る音がした。すると雨垂れがひと粒頬に落ちてきたように冷たいものが目尻から耳たぶにこぼれた。(「夕空晴れて」伊集院静)

背いて故郷(志水辰夫)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第6刷 05年2月1日発行/10年11月4日読了

 「新しいロングピースの封を切り、火をつけて墓前に供えた」タバコの銘柄をいう小説は珍しい。ロングピースは3度出てくる。「庄内平野は厚く張り巡らせた雲の下にあった。今日も太陽が一日姿を見せることなく終わり、日中の気温は殆ど上がらなかった」の風景描写がいい。柏木が謎を追い始めたために敵味方の7人が殺され、一人が重傷した。殺伐たる世界である。「音がする。わたしの傍らを歩いている足音がする。早紀子が黙って歩いてくる」早紀子はこのまま柏木に着いて行くだろう。
 「ストーブの炎を吹き上げる規則的な音が病室に籠もっていた。窓の外は雪。庭先にあるあぜびの木が、枝に積もった雪をときどき払い落としている音がする」

あわせ鏡に飛び込んで(井上夢人)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 08年10月15日発行/10年11月6日読了

 「世にも奇妙な・・」の原作みたいな本。疑心暗鬼、権謀術策、ストーリの面白さがすべてである。
 面白かったのは、「ノックを待ちながら」。自分に似た男を自分の身代わりにするため毒を飲ませた。次ぎは自分が毒を飲んだように見せかけ狂言自殺を企てた。完璧なシナリオだった。妻がノックをして証人を連れ部屋に入ってくる。自分はこの包みの粉末を飲む。だが、本当に毒ではないのか。果たして妻を信じていいのか、それとも自分も毒を飲まされるのか・・・

フェイク(明野照葉)★★★☆☆

株式会社徳間書店 徳間文庫 第2刷 10年9月20日発行/10年11月9日読了

 偶然この前の「合わせ鏡・・」に似た読み物になった。「過去に実際にあった出来事だったか、夢の中のことだったか、一瞬分からなくなることはありませんか」作られたものでも、自分で過去のことが実際のことだと信じられればそれは現実になる。なにが真実でなにが嘘か他人にはどうでもいいこと。現実と虚飾の倒置感覚。果たして現実に向かうことだけが幸福なのか。

陰の季節(横山秀夫)★★★☆☆

株式会社文芸春秋社 文春文庫 第28刷 08年7月25日発行/10年11月10日読了

 人事を握る新堂警視の周りの、警察組織の地位、名誉に絡んだドロドロした内部小説。「陰の季節」引退した刑事の執念、「地の声」の昇進欲に絡む策略、「黒い線」の作為、「鞄」の謀略。歪んだ人間模様を見る思いである。「ベニカナメ」の生け垣が一周する。よく刈り込まれたベニカナメは、少々痩せ細って見栄えが悪い。やはり、新芽の鮮やかな赤を楽しむものなのだろう」

しずかな日々(椰月美智子)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第5刷 10年9月29日発行/10年11月11日読了

 「人生は劇的ではない」第45回野間児童文芸賞、第23回坪田譲治文学賞受賞作品である。何が起こるでもない、実に淡々と小学校五年生の輝くような夏休みが過ぎていく。しかし、しんみりと心に染み通るものがある。

激流 上(柴田よしき)★★★☆☆

株式会社徳間書店 徳間文庫 初刷 09年3月15日発行/10年11月17日読了

 二十年前、中学の京都修学旅行中失踪した冬葉からメールが来る。「私を覚えていますか?冬葉」これだけで謎めいていて、その上同級生に次から次へと事件が重なっていく。そこに冬葉がフルートが好きでいつも吹いていたアルルの女。中年に差し掛かろうとしている6人の同級生もそれぞれに人生の傷を負っていた。徐々に二十年前の記憶が蘇ってくる。知らず知らずに引き込まれ900ページいわゆる一気読みになってしまった。(まあ都合よく次から次へと、という感は否めないが)

死ぬより他に(福澤徹三)★★★☆☆

株式会社徳間書店 徳間文庫 初刷 10年8月15日発行/10年11月18日読了

 それぞれに身に詰まされる話です。どこにでもありそうな、ボタンの掛け違いのような人生。痴漢の濡れ衣で会社の企画書が入った鞄を電車に忘れたサラリーマン。思わず会社社会の強迫観念が蘇ってくる。メンタルで壊れた人々と言っても紙一重かもしれない。「金木犀の枝に、蝉が一匹とまっている。まもなく寿命が尽きるのを知ってか知らずか、一心不乱に鳴いている。その姿が、仏壇の前で慣れない経を唱える老人に重なる」

受け月(伊集院静)★★★★☆

株式会社文芸春秋社 文春文庫 第10刷 05年11月15日発行/10年11月19日読了

 しんみりといいですね。茂とキャッチボールをする由美。子供へと小遣いを渡した正造。子供を欲しがっていた由紀子。映画館で昔の男を思い出す伸子。風呂場で息子にスイングフォームを教える美知男。カシの家を菓子の家と思っていた善一。月に祈る鉄次郎。
 「影は麻布の家の樫の木であった。ビルのはざまからシュークリームのような形の木の影がのぞいていた」カシはナニ樫だろうか。シラカシかもしれません、それともアラカシかアカガシか。最初はスダジイかと思ったがそれならシイと言うはず。
 東上線が出てくる。寄居、東松山、志木。なんとはなく親しみが湧きます。

輝く夜(百田尚樹)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 10年11月12日発行/10年11月19日読了

 クリスマスイブを前にしてファンタジーです。「ケーキ」がよかったですね。クリスマスイブの夜、20歳の真理子は癌に侵され治療法もなく死を待っていた。人並みの幸せがほしい、と願うと真理子の癌は奇跡的に治癒し、幸せな人生を過ごす。老年その死の床で永遠の眠りについたとき、元の病院では真理子が息を引き取っていた。その死に顔は微笑んでいた、そして老人の顔だった。「邯鄲の夢」のようなお話です。
 「明かりは背の高いクスノキの枝に付けられた無数の豆電球だった。クスノキは大きな洋館の敷地に生えていた。赤、緑、黄色の綺麗な電球がちかちかと点滅して、葉に積もった雪に光が映えて美しかった」

乳房(伊集院静)★★★☆☆

株式会社文芸春秋社 文春文庫 第1刷 07年9月10日発行/10年11月24日読了

 「乳房」が作者の妻であった夏目雅子の闘病生活と重なる。里子は「遊んできていいんだよ。パパの匂いはずっと知っているもの」というトランプの総とっかえのように、里子の肉体とこの女の肉体をかえることはできないのか」

at Home(本多孝好)★★★☆☆

株式会社角川書店 初版 10年10月31日発行/10年11月26日読了

 擬似家族でも家族愛は作れる、いや本当の家族より家族愛らしいものが展開する。「僕らは互いに見やり、この十二年間、ずっと言いたかった言葉を揃って口にした。お帰りなさい、父さん。父さんが僕らの顔を見回し、頷いた。ただいま」これは血の繋がりでなくて何なのだろう。

負け犬(志水辰夫)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 05年4月15日発行/10年11月30日読了

 「葉のおおかたが樹上にのこっていた。柏と言う木は落葉樹だが、冬になってもすぐには葉を落とさない。風が吹けば風に耐え、雪が積もればその雪を抱えて、冬を越す。そして春、新芽の芽生える季節になって、始めて葉を落とす」数十年後確かめずにいられない捨ててきた過去、故郷、友人、思い人。しかしどれも苦いものでしかなかった。