小説の木々14年05月

窓の外は霧にとざされていたが、白い霧には淡い紫の色がにじむようになった。その色が電車の動きにつれて後方に流れていく。かれは、色の流れに見惚れた。沿線に咲き乱れるおびただしい紫陽花の色が霧にすけてみえるのだ。芦ノ湖の風光は見なれているので、これといった感慨はなかったが、紫陽花の色に久しぶりに自然の美しさを眼にしたように思った。戦時中、海軍の技術科士官として内地に勤務していたかれは、何度も空襲に身をさらした。その後戦争は終わったが、眼に映るのは、広大な焼跡、闇市場、うつろな表情をしてあてもなく歩く人の群れなどであった。そうしたものにふれつづけてくたかれには、霧の中を流れる紫陽花の色が新鮮なものに見え、ようやく自分自身を見出したような安らぎを感じた。(「光る壁画」吉村昭)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

殉国(吉村昭)★★★☆☆

株式会社文藝春秋 文春文庫 第10刷 13年2月15日発行/14年05月03日読了

あの頃の14歳にして戦うという精神構造に触れても仕方がない。今の時代から戦争の悲惨さを論じても仕方がない。一体それがなんだったのかという価値観を述べてもさらに仕方がない。大日本帝国の最期、沖縄戦に好むと好まざるとに関わらず参画した14歳の鉄血勤皇隊の少年が戦場をひたすら駆け生き延びた刻々の無残で過酷な状態表現だけであり、素直にただ読むことにした。

人制相談(真梨幸子)★★☆☆☆

株式会社講談社 第1刷 14年4月14日発行/14年05月07日読了

一つ一つの人生相談はバラバラではなく、連作のように進み、その実、底で繋がっていた。旧姓、源氏名等々名前を入り乱れ、ミスリードのオンパレード。一体何が言いたいのか。中身はなく、ミスリードを楽しんでいるかのようで、それ自身を楽しんでいるかのようだ。

看護婦が見つめた人間が死ぬということ(宮子あずさ)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第30刷 13年8月7日発行/14年05月09日読了

実際の現場の看護婦である筆者が見てきた死に対する思いが綴られている。悔しさも、悲しさも、憤りも、少し淡白か。

星への旅(吉村昭)★★★★☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第36刷 13年10月25日発行/14年05月10日読了

「星への旅」以前ネットで知り合った若者が集団で練炭自殺したことがあった。趣は似ているが、星の旅の若者は弱くはあっても仲間意識があった。だから逃げられない気持ちもあったし、地元で貧困した生活の中で生きる人達を見て、その乖離にも疑問を持ち、仲間内でも恐怖と疑問で迷い、死ぬ必要もないがそれでも死んでいく若者の不条理が流れていた。
「透明標本」での特異な仕事において見つめた死に第三者的な目を感じる。

零式戦闘機(吉村昭)★★★★☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第51刷 13年6月10日発行/14年05月13日読了

開戦当時、世界が蔑んでいた日本の航空機技術で、世界に誇る零式艦上戦闘機は造られた。攻撃こそ最大の防御。山本五十六も知っていたように、長期戦になれば工業力の差から日本は明らかに破滅する。しかし、ミッドウェイ海戦を境に、引き下がり始めると、既に誰にも止められず、一億総玉砕への道を進んでいく。こうした中でゼロ戦は、四年間の栄光と衰退が日本軍と二重写しになる。戦術にばかり走り戦略を忘れた日本軍の衰退は、「戦艦武蔵」でも同様である。戦史というより、日本の死に物狂いの物作りの原点を見るようだ。

光る壁画(吉村昭)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第13刷 11年9月10日発行/14年05月15日読了

胃カメラが日本人によって発明されたとは知らなかった。戦後何もないところから、今では当たり前のように医療分野で使われる胃カメラが苦心の末造られたいく過程は、日本人の尽きることのない物造りの世界を感じる。

背中の勲章(吉村昭)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 第22刷 14年1月25日発行/14年05月17日読了

まさに裏から見た太平洋戦争。とにかく「生きて虜囚の辱めを受けること勿れ」という戦陣訓が、その過去を辿れば武士道に繋がる意識が根底にある。日本は捕虜に関する国際条約に参加していなかったのも始めて知った。戦死したものと捕虜となって生き残ったものの差は然程大きくはない。

怒り(上)(下)(吉田修一)★★★☆☆

(上)株式会社中央公論社 初版 14年1月25日発行/14年05月19日読了
(下)株式会社中央公論社 初版 14年1月25日発行/14年05月20日読了

上巻は、被疑者山神を刑事南條、北見が追う主線に、愛子、泉、優馬の三人の複線が前後して併走する。しかも、それぞれに田代、田中、直人という怪しげな3人の人物を孕んで。それぞれの物語が徐々に接近し、いつか一点に収斂していく。
下巻。三つの物語は収斂せず、それぞれに信じる、信じないの狭間で揺れる。過去の分からないということは、こうも人を信じ難くさせるものか。しかし、何も知らず今だけを見て信じろというのも容易ではない。美佳は終に過去を明らかにせず北見から去った。辰哉は泉のためというより、信じたものに裏切られた。穴居無犯人の「怒り」が何に対する怒りか、その意味は明かされない。

末裔(絲山秋子)★★★☆☆

株式会社新潮社 新潮文庫 初刷 14年4月1日発行/14年05月22日読了

ある日家に帰るとドアに鍵穴がない。過去に死んだ人間が現れる。泊まったホテルがある日忽然と姿を消す。犬がしゃべる。ゴミ屋敷にパンツの花が咲く。おかしな世界だが、妙に違和感がない。定年前の公務員も、経験するこの世界に然程驚いてはいない。ところで何が言いたいのか、分からなくなる。日常と非日常さえ厳密に分けることも必要なく人は代々延々と生きているということか。

みんなの秘密(林真理子)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第32刷 14年5月8日発行/14年05月23日読了

覗き趣味的な都会の中上流家庭の日常に潜むそれぞれの秘密が連作で綴られていく。なかには身に詰まされる話題もある。その中でも勝手な「祈り」は、明日は我が身と知りながら、そのリアリティに愕然とする。

溺れ谷(松本清張)★★★☆☆

株式会社光文社 光文社文庫 初版第1刷 14年5月20日発行/14年05月26日読了

精糖業界の収賄疑獄。あまり山谷がない気もするが、いつもながら相当時代物なのに古めかしさがない。もっと抉り出しても良いと思うが、出てくる政治家、役人が小悪人で、ドロドロしさが足りない。

遠い幻影(吉村昭)★★★☆☆

株式会社文藝春秋社 文春文庫 第7刷 13年4月10日発行/14年05月27日読了

「梅の蕾」は、村民の感情を素直に受け止めて感動的。短編の中に、さりげなく人生の一事象を捉え、その周りにいる人を描く秀作。

長女たち(篠田節子)★★★★☆

株式会社新潮社 第5刷 14年5月20日発行/14年05月30日読了

今風で悩ましい問題。嫁ぎ遅れて、あるいは離婚した長女が、母、父を最期まで看取ることを期待される。まだ意識がしっかりしていればまだしも、悲しくも辛い生活が将来的にも予想される。「家守娘」はここまでオカルトにしなくても十分悲惨なので、現実的にシリアスな物語にして欲しかった。