小説の木々14年08月

私はいつの間にか、花のトンネルの中にいた。味のある枝振りに、真っ白な花が無数に咲いている。それを見た途端、耳には鳥の声が、鼻には香りが甦った。「ははあ・・・。綺麗なものですな」私は唸った。「ちょうどいい時期でした。盛りでしたね」「こいつは桜ではないようですな」しかつめらしい顔でそんなことを言ったものだから、妙子さんは困ったように笑った。「これは木蓮です。白木蓮といます」「へえ」これが木蓮というものですか、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。私は大学四年生にもなろうというのに、木蓮の花すら見てわからぬほどに無教養だったのだ。・・どこまでも続くような花の道をぼんやりと見上げながら、学友にも話したことがない事情を、私は問われるままに話していた。(「満願」米澤穂信)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

満願(米澤穂信)★★★☆☆

株式会社新潮社 第10刷 14年6月15日発行/14年08月06日読了

6編それぞれでに謎を含み、TV恐怖ミステリードラマのような趣がある。「柘榴」には若いとはいえ女性の業のような独占欲の怖さがあり、「満願」には周到に練られた完璧な犯罪計画があった。「万灯」のシャハが言う、「貧しさとは、豊かさを見て初めて気づくものなのか。豊かさに比べて足りぬということが貧しいのか」人の幸不幸の相対性には疑問を持ちつつ現実も考える。

エンドロール(鏑木蓮)★★★☆☆

株式会社早川書房 ハヤカワ文庫 第3刷 14年4月25日発行/14年08月08日読了

元名は「しならい町」だが、「エンドロール」は目に浮かぶような名前である。いかに土地家屋調査士の肩書きのある甲山とはいえ、調査出来すぎのきらいはあるが、そこは目を瞑っても、次々と明らかになるつながりにはミステリー的要素もある。一人の孤独死した老人の過去と人の繋がりが鮮明に見えてきて、一人ではなかったことが分かる。「夢って逃げ場所じゃないわ」、門川にもほんの少し希望がさしてきた。

私に似た人(貫井徳郎)★★★☆☆

朝日新聞出版社 第1刷 14年4月30日発行/14年08月12日読了

「トベ」はおそらく「飛べ」。小村の自殺テロと二宮の遭遇事故の同じトラック激突のミスリードで混乱させられる。中間富裕層の無意識の罪。貧困と幸不幸の投影。格差社会と憎しみの連鎖。日本人がいい人という理論も日本人が中間層で豊かになったことからであり、それもあくまで相対的なもの。ネットの中でしか本音で話すことができず、ゆえにネット上でマインドコントロールされる現代社会を彷彿とさせ興味深かった。

夜のふくらみ(窪美澄)★★★☆☆

株式会社新潮社 第1刷 14年2月20日発行/14年08月14日読了

「誰にも遠慮はいらないの。なんでも言葉にして伝えないと。どんな小さなことでも。幸せが逃げてしまうよ。」別れた女が弟の嫁では家にも帰れない。レスの夫婦が続くにはもう少し時間が必要。圭祐は救われるように京子と出会うが、京子が若すぎて長続きしない気がする。

嫁の遺言(加藤元)★★★☆☆

株式会社講談社 講談社文庫 第1刷 13年4月12日発行/14年08月19日読了

大人の童話。どうしてこうも男は駄目に描かれるのだろう。作品中では「あんた」がいい。末期癌に冒された姉の元夫。「あんたがそう思ったように、あんたが死ぬ時は、その傍らにいたいと私は思っている。だから何とかするしかない」多くの選択肢がある時代は終わった。私にとって、今は目の前にある中から選んでいく進路なのだろう。

海岸通りポストカードカフェ(吉野万里子)★★★☆☆

株式会社双葉社 双葉文庫 第1刷 14年8月10日発行/14年08月21日読了

「言葉にしなければ伝わらない。綴らなければ届かない」手書きの手紙、葉書に限ったことではないが、メールがいかに主流となっても、やはり一番手書きの手紙、葉書が気持を伝えることができる。いまは住所も知らない人に、いつか、手紙を書いてみようか。その前にペン習字を習おうか。

ベストフレンズ(永嶋恵美)★★☆☆☆

株式会社光文社 光文社文庫 初版第1刷 14年7月20日発行/14年08月24日読了

可愛らしくって、どこかとろくて、つい手を掛けたくなる桜。病気退職、家賃滞納でマンションも出され、実家にも帰れず就職活動をしながらその日暮らしのアルバイト、まるでホームレスの毎日を過ごす風香。中学校時代の親友同士がある夜偶然にファミレスで再会する。風香は中学時代と同様に、桜を見捨てられず、逃避行につきあう。しかし、風香は桜の何も知らなかった。

(白石一史)★★☆☆☆

株式会社鉄筆 鉄筆文庫 初版第1刷 14年7月25日発行/14年08月27日読了

「人は故郷を捨てるのではなく、こうして亡くしていくのだ」親兄弟がいなくなった故郷は亡くす運命なのだろう。運命の人というが、徹底的に自己主義である。最近の作品はやたらと自己の価値観で押し付けで、少々辟易気味。

春の庭(柴崎友香)★★★☆☆

株式会社文藝春秋 第1刷 14年8月10日発行/14年08月29日読了

太郎は父の骨を摩り下ろしたすり鉢と乳棒を十年も食器棚にしまっている。写真集「春の庭」に映された無人の家に惹かれてこのアパートに移り住んでいる西は目の前にある家の周りを歩き、あるいは眺めて暮らしている。時が止まっていた「春の庭」の家に新しい住人が移り住んできて、その家の時が動き始める。とくに事件が起こるでもなく、街と家の空間、時間、家族との関係が淡々と流れていく。太郎はある夜父のすり鉢と乳棒をその家の庭に埋める。「春の庭」の家もアパートも近いうちに取り壊されている。父の死と、街の有り様と自らの無関心な日々とが妙に絡み合う。