小説の木々19年10月

道の向うの塀の中から大きな樹木が葉を繁らせていた。その緑の中でしとどに濡れた泰山木の花が、目のさめるような白さで咲いていた。雨だから、傘をさせばつい下を見て、泥にぬかるんだ道ばかり眺めて歩くものであるのに、茂造は濡れることには頓着なく、傘をかまわず上を向いて歩いて、雨の中で豪華な咲き方をしている花を認めたのであろう。昭子は、胸を衝かれていた。泰山木の花は、美しかった。多く花びらが、恐れずに雨を享けて咲いている。車が走り交う小径の上で、その白さは堂々としていた。昭子もしばらく黙って梅雨に濡れる花を眺め、そして花と茂造を較べ見て、この美しさに足を止めるところをみると茂造には美醜の感覚は失われていないのだと思った。(「恍惚の人」有吉佐和子)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

罪の祈り(貫井徳郎)★★★☆☆

株式会社実業之日本社 初版第1刷 19年09月15日発行/19年10月03読了

地元に愛されていた引退した警察官が殺された。そこには28年前に起こった幼児誘拐事件が絡んでいた。当時いかに地上げ屋が理不尽に跋扈していたとはいえ、その復讐に誘拐を犯した5人組が悲惨な罪の意識に苛まれる人生を送る。あまりに馬鹿げた選択だった。さくらの罪は殺人、傷害致死ではなく、単なる傷害で、辰治は自殺ではないか。しかし、自殺意思を証明するには、過去の犯罪を暴露する必要があるかもしれない。真実は闇の中に。

落日(湊かなえ)★★★☆☆

株式会社角川春樹事務所 第1刷 19年09月02日発行/19年10月13日読了

姉は海外にピアノ演奏に飛び回っている、という話が徐々におかしくなってくる。「忘れないっていうのは、生きているふうに扱うことじゃなくて、一緒に過ごした時間を思い返すことかもしれないな」まずこの壁を越え、真実に向き合い始める。幸せってと問われて「祖母、父母、子供の順に死ぬこと」(どうやら「親が死ぬ、子供が死ぬ、孫が死ぬ(一休宋純)」が元句のようだが)、深い言葉である。

罪の轍(奥田英朗)★★★★☆

株式会社新潮社 第1刷 19年08月20日発行/19年10月23日読了

誘拐事件そのものは比較的単純だが、地道な捜査で目星をつけた容疑者は限りなくクロに近いと分かっていながら、被害者の安否は不明、物証はない、自白も取れない。ましてや解離性障害の疑いがある。これでは起訴もままならない。元々罪の意識さえない容疑者には脅し透かしも通じない。内部組織の縄張り意識の弊害と、TV、電話が普及し始めで右往左往する警察。最後に脱走まであって、結構楽しめた。

妻の終活(坂井希久子)★★★☆☆

株式会社祥伝社 初範第1刷 19年09月20日発行/19年10月23日読了

仕事一筋で子育ても家のこともすべて妻任せで何もしない、よくある夫像である。そんな中、妻が余命一年の宣告を受ける。受け止めることができるできないではなく、時間は過ぎていく。妻がとった行動は一人残る夫に家事を教えること。延命を拒否し、在宅介護で最期を看取る家族の姿も人それぞれである。これも一つの逆縁であり、辛い話である。一休宋純禅師の言う「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」、順番通りでないことが人生か。

ツナグ想い人の心得(辻村深月)★★★★☆

株式会社新潮社 第1刷 19年10月20日発行/19年10月30日読了

一冊目の文庫本を読んだのは5年前、いかにも辻村ワールドではあるが、設定、構成が面白く、続編を期待していた。それが発刊されたので 早速単行本で読んだ。今回は単純に引き合わせるだけではなく、一捻りもあった。皆が全部死者に会いたいと思っているわけでもない。死者が何を思い、何を言いたかったのか聞きたい。「同じ時代に生きられるということはね、尊いです」「想い人や、大事な人たちと、同じ時間に存在できるということは、どれくらい尊いことか」シリーズ化もいいかも知れない。