小説の樹々20年11月

夏の終わりの風が、桜の枝を揺らす。頭上の葉のざわめきが、子供たちの歓声を耳からつかの間遠ざける。夏が行く。もう何度と数えることはない。あと何度と思いを馳せることもない。さすがに私は・・・私は年を取りすぎた。なあ、お前はどうだ?寄りかかった桜の木を下から見上げた。桜は応えなかった。ただもう一度、枝葉がざわめいた。見上げた姿勢のまま目を閉じた。桜のざわめきがやみ、耳に子供たちの歓声が戻る。指導をするコーチたちの声も聞こえる。それを見守る親たちの声も聞こえる。ふと気配を感じて目を開けると、いつの間にか隣にいた。私は桜の木から体を離した。(「Good old boys」本多孝好)

「かくれみの」の読書歴

蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)

出会いなおし(森絵都)★★★★☆/ISBN978-4-16-791453-0

株式会社文芸春秋社 文春文庫 第4刷 20年10月5日発行/20年11月01日読了

「どうしようもなく壊れてしまったもの、失われてしまったものはもう二度と取りもどせないけれど、ヒビのあいだから光を探して生きていくことはできるかもしれない」人は何度でも出会いなおせる、人生へのエールのようだ。「十年間。たがいの肌が溶け合うほどに密な時間を過ごしながら、しかし、それでも亜弥のなかには、最後まで私の入りこめない小部屋があったような気がしてならない。私の妻にしてしまったことで、恭介の母にしてしまったことで、私は亜弥から奪ってはならない何かを奪ってしまったのではないか。」

カレーライス(重松清)★★★☆☆/ISBN978-4-10-134939-8

株式会社新潮社 新潮文庫 第3刷 20年9月25日発行/20年11月05日読了

既刊の作品を集めた短編集で、一度は読んだことがあることになる。いくつかは記憶がある。読み返してみるといやにベタである。好き嫌いが出そうである。

私はあなたの記憶のなかに(角田光代)★★★☆☆/ISBN978-4-09-406823-8

株式会社小学館 小学館文庫 初版第1刷 20年10月11日発行/20年11月15日読了

忘れなくなりそうなフレーズである。 「妻のことを思いだしていた。思いだしていないと、妻の存在そのものが消えていくように思えた。・・・部屋の入り口に立つ尽くし、なんだか自分みたいだと思った。この部屋は、妻といっしょにいない自分の姿みたいだ。なにもなくて、からっぽ。そんなはずはなかろう、妻がいなくたってぼくにはきちんと中身があろう、と思ってみるが、いや本当に、ぼくという人間から妻を、あるいは妻といた時間を差し引いてしまったら、なにも残らないように思えてならなかった。」「ひょっとしたらぼくらは本当にひとりかもしれない。だれといても、どれくらいともにいても、ひとりのままかもしれない。けれど記憶のなかではぼくらはひとりではないい。・・・を思い出すとき、そこにはつねに妻がいる。妻の記憶にはぼくがいる。今、ひとりだとしても、あるいは誰かを失ったとしても、ぼくらの抱えた記憶は決してぼくらをひとりにすることがない。」

八本目の槍(今村翔吾)★★★★★/ISBN978-4-10-352711-4

株式会社新潮社 第4刷 20年3月20日発行/20年11月21日読了

久し振りの時代ものであったが、権謀術数、出世、裏切り、思いやりが入り乱れ、面白かった。会社での同期入社の仲間達にも通じるものがある。八人の個性がよく表れていて、特に孫六の立ち位置が明確になると俄然人間関係が深くなる。実際の佐吉(石田三成)がどのような武将であったかは小説なのでこの際おいておいて、八本目の槍が物語全般に一本筋を通した感がある。今年一番かも。

八月の銀の雪★★★☆☆(伊予原新)/ISBN978-4-10-336213-5

株式会社新潮社 発行 20年10月15日発行/20年11月27日読了

随分と科学的な知識を詰めた話であった。地球内部のこと、クジラ、伝書鳩、珪藻のこと、ジェット気流と風船爆弾のこと。自然と人間の営みの接点、関りを綴ったような気持ちで読み進めた。