小説の木々4(小説に出てくる木々)
小説で季節を表すとき、直接春夏秋冬を文字にする必要もない。さりげなく樹木の状態や花木を書けば自ずと季節や時期がわかる。時間の経過もある程度分かる。そんな使われ方もありでしょうね。また、人の気持ちを樹木に託すようなこともありそうである。
最近は3冊くらい買い溜めする。新聞などの書評を参考にするが実際はあまりジャンルも問わない。小説を読む前に小説の中で樹木が出てくるかどうかは分からない。読み終えて1本の木もないと、なんとなくしっとりさが物足りない気がするが。始めは樹木の出てこない小説は記載していなかったが、まあ、読書記録として書き留めることにした。特に物語の背景として季節を語るときなど綺麗な花木が欲しい。あるいは何かに喩えるようなときに。
「かくれみの」の読書歴
蔵書を整理した。中学校の頃から読書を始め、最初に読んだ文庫本は伊藤左千夫の「野菊の墓」だったと記憶している。確かS.Oさんから借りたものではなかったか。今から思えば、本を貸してくれたことは実は告白だったか?学生の頃は電車通学で文庫本を読んでいたが、例外なく太宰治、芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石あたりから始め、三島由紀夫、福永武彦、立原正秋等へといった。借りて読むのは好きではなくほとんど購入していた。三浦哲郎の「忍ぶ川」はいつごろ読んだのだろうか。しかし、家でボヤをだし、この時代の蔵書は水浸しで全部捨てた。会社に入ってからは読書の習慣がしばらく絶えて電車の中ではビックコミックを愛読していた。いつの頃からか再び読み始めているが、多少金銭的余裕もできてハードカバーも購入し始めた。気に入った本があると同じ著者物を続けて読む傾向もある。当然ながらいつの間にか本が山積みになり始めた。でも捨てきれないでいる。(本棚左下の家マークをクリックするとマイ本棚へ)
ステップ(重松清)
「イチョウの葉がひらひら、ベビーカーに舞い落ちた。美紀は葉っぱよりも小さな手のひらでそれを取って、興味深そうに見つめる。『イチョウだよ』声をかけると、『いしょー、いしょー』と舌足らずな声で繰り返す」妻の朋子は結婚して3年であっけなく亡くなった。健一は美紀と二人だけで生きていく。
「春はさくら。初夏は、さつきとつつじ。六月になるとあじさい、夏はあさがおとひまわり。秋にはきんもくせい。冬はつばきとうめ。保育園まで美紀を送っていきながら、毎日、花を眺めてきた」「まだ花が色づく前のあじさいを見て『きみどりいろのはながさいているの?』を美紀が言ったのは、ちょうど二年前、保育園の『ひまわり組』になる頃だった。」黄緑色の花もいい。
会社では鬼といわれた義父が本音を吐露する。「朋子の思い出はもう増えないんだ。あとは歳をとって忘れていくだけだろ。それが怖くてたまらないんだ。子どもの頃の朋子のことだけは、死ぬまで、ぜんぶ覚えていたいだけど、いかんせん、もともと思い出が少ないからな、ばあさんに比べたら何分の一しかないんだから。忘れてもいいような仕事のことばっかり、よーく覚えてて、一番大事なものが・・・大事なのになあ、ほんとうに、いまになって気づいても遅いんだよ」
22歳、季節がひとつ過ぎてゆく(唯川恵)
この物語には具体的な樹木の名は出てこず「季節はもう夏の気配を色濃く漂わせていた」ことから、概ね大学生活最後の夏の季節と知ることができる。征子と早穂は恵理子の婚約パーティに招かれる。征子は恵理子の婚約者圭一郎と似た境遇を持っていた。「外に出ると、いつの間にか降り出したのか、銀色の雨が街路樹を濡らしていた。征子は熱い身体と心を鎮めるように、雨の中を歩き始めた」
征子は恵理子と早穂の態度に疑惑を持つ。「外に出ると、アスファルト道路に白く乾燥した陽炎がゆらめいている」気持ちの中にはまだわだかまりが残っている。「幾重にも重なるように葉を茂らせた並木の隙間から、白く乾燥した日差しが溢れていて、征子は思わず足を止め、手をかざして空を見上げた」それでも圭一郎は婚約を解消する。「どれくらいたっただろう。気の長い夏の夕暮れもとっくに匙を投げた頃、ようやく圭一郎が姿を現した」一人ニューヨークへ旅立つ圭一郎に確かめる。「タクシーは湿った夏の風の中を走りぬけ、ネオンの残像が滲んだ絵の具のように車窓にはりついている」
圭一郎を追ってニューヨークへ出発する恵理子を空港に見送り、征子は過ぎ行く夏を思う。「風には秋の匂いがあった。夕暮れが近づくと、日中の暑さを避けてビルの陰や庭の植木の下に隠れていた秋の気配が、ゆるゆると活動を開始する」「征子は空を見上げながら、愛おしさに満ちた想いで夏の終わりを見送った。しかし、それは新たな季節の始まりでもあった」
向日葵の咲かない夏(道尾秀介)
「緑の多い公園の脇は、なるべく足早に通り過ぎ、部屋の窓越しにケヤキの並木を睨みつけながら、鳩尾に力を込める」小学校四年生のミチオには三歳の妹ミカがいたが、事件の1年後死んだ。「それ(妹の遺骨の一部)を見るたび僕は思い出す。小さな指を並べた、あの可愛らしい手。ラテックスの作り物のようなすべすべした、あのお腹。僕の膝の上で、全身を痙攣させながら、忘れないでねと言った彼女の、あの綺麗な丸い眼」妹の死にしては少し変だが、これは最後に前触れもなく突然ショッキングに分かる。「ケヤキ通りは、校門から真っ直ぐに延びる、両側に高いケヤキの並木がつづいている広い通りだ」
ミチオは終業式の日、欠席した級友にプリントを届けに行きそこで首を吊っている級友を発見する。「庭のすぐ向こう側に、広いクヌギ林がつづいて、その境目には低い竹垣が組んであった」警察が駆けつけたとき死体は消えていた。一週間後級友は姿を変えミチオの前に現れ、自分は殺されたという。まず、担任の岩村先生の後をつける。「僕は隠れていたヒイラギの木陰から足を踏み出した」
泰造は級友の家を訪ねる。「桜、楠、枇杷、山茶花、あまり手入れはされていないようで、どれも怒ったように方々へ枝を突き出していた」徐々に級友と泰造の関係が明らかになる。「口に石鹸を詰め込まれた茶色の犬の死体が、椿の植え込みの下に放り込んであった」「陽が傾きはじめていた。クヌギの枝葉に半分遮られた橙色の光が、窓の外から射し込んでいる」
どうすればいいと思う?このままで、よくないならば?。壊しちゃうしかない。火の勢いは強まり、うねるような火炎の音が部屋を満たしていた。お父さんとお母さんが、僕のほうに両手を差し出すのが見えた。そのときたしかに、僕の名前を呼んでいた。三年ぶりのことだな、と最後に思った。
限りなく透明に近いブルー(村上龍)
村上龍、1976年のデビュー作で芥川賞受賞作。今でも風化せずそのまま通用すると思うのは、どの時代も若者の世界は同じということだろうか。場所は米軍基地のある福生(ふっさ)。「もういいのよ、リュウ、もうたくさんだよ。レイ子は小さな声で言い、道の脇に植えられたポプラの葉を一枚ちぎった」このポプラが全編に渡り印象的に出てくる。19歳のリュウと仲間たちの、ドラッグとセックスと嬌声の日々。
「湿った空気が顔を撫でる。ポプラの葉がそよぎ雨はゆっくりと降っている」リリーはリュウに言う「あなたは可愛そうな人だわ。目を閉じても浮かんでくるいろいろな事を見ようとしているんじゃないの?あなたは何かをみよう、みようとしているよ」
「ポプラの幹に止まっていた硬い殻を持った虫が、風で強められた雨にとばされ、流れに水に逆らって進もうとしている」「放り投げたパイナップルが地面に落ちた音は、きのうのトイレでの私刑を思い出させる」「顔がまだ青白いが、痛みはないといった。捨てたパイナップルはポプラの側にちゃんと転がっている」
「外など気にかけていなかったけれど、まるでずっと見ていたかのように道路を横切る酔っ払いや、走っていく髪の赤い女や、走る車から投げられる空罐や、黒々とのびるポプラや、夜の病院の影と星が不思議にありありと目に浮かんできた」
ゴキブリの腹からは出た黄色い体液、嘔吐物の酸っぱい匂い、腐ったローストチキン、死んで絨毯に転がる蛾の羽を口に入れた感触。読んでいても、その色、匂いだけでなく、口の中の感触さえ実体験のように感じられる。「アパートの前のポプラの側に、きのう捨てたパイナップルが転がっている。濡れている切り口からはまだあの匂いが漂っている」
「ポケットから親指の爪程に細かくなったガラスの破片を取り出し血を拭った。血を縁にしたガラスの破片は夜明けの空気にそまりながら透明に近い」これは何かを越えた希望だろうか。物語りも時代背景も違うが、J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思い出した。
あの日にドライブ(荻原浩)
もし学生時代に付き合った恵美と結婚していたら・・・人生はやり直せるのか、やり直せるならどこからやり直すのか。「庭には格別広くないが、よく手入れをされた芝生が張られ、塀の周囲の庭木には一年中花が咲いていた。春と秋にはバラ。夏はひまわり。いまの季節ならツバキ」「敷地のいちばん奥、窓からの明かりがほのかに落ちているあたりに、点々と散っている赤い色が見えた。ツバキの花だ」
「敷地の隅に、かっての住宅の名残らしい桜の木が立っていた。桜の木の下、敷地の中へ乗り入れるようにしてクルマを停めた」「桜の木の下、所定の位置にクルマを停め、眠気が訪れるまで恵美の家を眺める」これは明らかにストーキング行為であるが、伸朗はひょっとしたら送っていたかもしれない違う人生を夢想する。しかし、「おそらくまだ花のない桜の枝にとまった鳥の声だろうが、なぜかそれは律子(奥さん)の声に似ていた」一つ一つ夢想が崩れていき、夢想の中に現実が入り込んでくる。
人生は曲がり角の連続で、自分はその都度曲がり角を選択してきた。次の角を曲がったら何があるだろう。「あちらこちらで目に映る白と紅色のコントラストは、梅の花だろう、そのすべてが朝の光に輝いていた」
月光(誉田哲也)
徳間書店 徳間文庫 初版 09.03.15
この本には樹木名は出てこないサスペンス物である。せめてこんな場面を。
音楽教師の羽田は刑事から真実を聞く。「樹上の闇が、物陰の暗黒が、泥流となって押し寄せてくる。毛穴から進入したそれは、血と混じり合って、温度という温度を奪っていく」耳には何も入ってこない。聞こえるのは内なる鼓動と、もう出すものはないのに臓器を絞り続ける、空嘔吐(からえづき)の唸りだけだった。
三人の人間がそれぞれのベートーヴェンのピアノソナタ第十四番嬰ハ短調「月光」第一楽章を演奏する。事故で亡くなった涼子のこの物語の序曲、「それは一枚の絵だった。まさに高窓から月の明かりが射し込んでおり、奏者の、ブレザーの肩を斜めから照らしていた」。羽田がすべて真相を知った後弾く、「なぜだ。なぜ弾けるのだ、こんな夜に限って。鍵盤から目を離し辺りを窺う。すると包まれていた月光に。涙が、溢れて止まらなくなった」懺悔の演奏である。
最後に涼子の妹の結花、「この曲の短調は、決して悲しみを意味しない。闇の深さと、対をなす月の明るさ、その澄んだ輝きを思わせる。凍てつくほど冷たく、それでいて静かに流れている、小波のような美しさ。だからこそ愛おしい。最後に二つ、静かに和音を落として終わる」赦し、そんな言葉が、ふと結花の脳裏に浮かぶ。
リピート(乾くるみ)
文芸春秋 文春文庫 第14刷 09.04.14
こうした小説はなんと言うのだろう、SF的サスペンスかな。何度も記憶だけ持って、約10ヶ月前の自分に戻ることができる。それは「今から約1時間後の午後五時四十五分に地震がおきます」という奇妙な予言電話から始まった。
「だんだん状況が把握できてくる。僕は路面にうつぶせに倒れているのだった。目にする街並みは馴染のもので、コーワマンションの赤煉瓦にサンクスの看板、冬枯れた銀杏の街路樹と放置自転車」毛利が10ヶ月までに戻った瞬間である。過去に戻って人生をやり直す。ちょっと前に読んだ「あの日にドライブ」は、過去に戻りたい願望だったが、これは実際に過去に戻ってしまう。ただし必ず10ヶ月前の1月13日11時13分に。
「空は皮肉なほど晴れわたり、常緑樹の梢越しに差す木漏れ日が、由子のコートに網目模様の影を落としている」ここは常緑樹ではなく、クスノキくらい使って欲しいところ。3月祖母が亡くなる事を知っており、(前は死に目にも会えなかったが今回は)その前に病院に見舞いに行く。「前週よりも寒くなったが、それは春の訪れを目前にした寒の戻りであった。隣家の庭の梅の花が満開になった」金は結果を知っている競馬で儲けた。だがこんなはずではなかった。
だからもう一度1月13日に戻った。「冬の夜空が見えた。黒雲の間に、星が散っているのが見えた。銀杏並木が見えた」・・・そして誰もいなくなった。
私たちの退屈な日々(多島斗志之)
双葉社 双葉文庫 第1刷 09.04.19
「女はこわいと言うけれど、本当のこわさをあなたは知らない」7人の女性が遭遇する7つの出来事で、登場する女性はいずれもしたたかである。
「秀子は樹木の間をぬけて公園の出口へと歩いた」25年ぶりに会った同級生の秀子と杉沼。この出会いはどちらにとって不幸だったのか。
「その急坂の手前に、檪(クヌギ)の木が三本ほどあって、二本は道から立ってるでしょう?」容子は思い出してはいけないことを、自らの勘違いで思い出す羽目になる。
駅路(松本清張)
新潮社 新潮文庫 第80刷 09.03.20
案外松本清張は読んだことがなかった。砂の器、点と線の有名どころも映画でしか見たことがない。これからは読み物に困ったら松本清張にしようかと思ったりする。
「奥入瀬一帯は太古からのブナの原生林です。慣れた者でも、いったん、迷い込んだら容易に出られない密林でございます」「バスは長い時間で登りつづけた。ブナの木が多くなってきた」「むせるようなブナやヒバの林の新緑に中に突き進んだ。あたりが翳ったように暗くなった」常子はこのブナ林の中で服毒自殺をしていた。しかし宿料を踏み倒してボートで逃げた二人組みの話から、偽装計略は崩れていく。(白い闇) 「それでも玄関前の花壇には、つつじが贅沢にあふれるように咲いていた」たったひとつの誤算は死んださち子が俳句雑誌の巻頭句に選ばれていたこと。(巻頭句の女)ともに男に騙され利用された哀れな女性が描かれる。
題名となった「駅路」は停年後を愛人と過ごそうと失踪したした男の悲しい結末、どこかで歯車が食い違った。
ダナエ(藤原伊織)
文芸春秋 文春文庫 第1刷 09.05.10
帯の「博打を愛し、酒を愛し、煙草を愛し、放蕩と逸脱を愛し、そして逝った(平成19年5月)作家」という文句に惹かれて買った。樹木の表現は一切なしだった。
「宇佐美は壁の六十号に目をやった。ふたたびうるみはじめた絵のなかのアコーディオンが「サマータイム」を奏でている。これは錯覚ではない。そんな思いにとらわれながら、宇佐美は絵のなかの音楽に耳をかたむけ動かなかった」たったひとつだけ残したかったアコーディオンとランプを描いた六十号の静物画に万感の思いが込められていた。