灯台の話

 ある年の暮、中学生の頃だったろうか、深夜テレビで「喜びも悲しみも幾年月」(木下恵介監督)が放送された。この時、主題歌とともに熱心に見た記憶がある。天候に関わらず、毎夜一日も欠かさず灯台に灯りを灯す業務が実に厳しい生活を思った。2006年(平成18年)、日本で最後の職員滞在灯台であった女島灯台(長崎県五島市)が自動化され、全ての灯台が無人化された。なお、女島灯台は「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台の一つとなったことで知られている。
 
 先日見た「北の国から」では、海で遭難した漁師の帰還のために、浜辺で夜通し篝火を焚いている場面があった。約1,300年前、遣唐船が帰国の途中行方不明になることがあり、船の帰り道にあたる九州地方の岬や島で、昼は煙をあげ、夜は火を燃やして船の目印にした。これが日本での灯台の始めといわれている。

 灯台とは「沿岸航行の船舶に目に付きやすく建てられた塔状の構造物で、夜間は灯光を用いて、陸地の遠近、所在、危険個所などを指示し、入港船舶に港口の位置を示す(広辞苑)」航路標識のことで、岬や島にある沿岸灯台、防波堤にある防波堤灯台がある。

 島国である日本では昔から、漁をしたり海上運搬したりで海に出た。昔は目的地へ行ったり、出発地へ戻るためには、山の頂きや自然にある物体を目印にしてきた。しかし、徐々に沖に出るようになると、遠いところからもよくわかる、自然物体以外の確実な目印を作ることが必要になってきた。そのため、岬や島の上に石などで塔を建てて、たき火をしたり、煙を上げたりして船の目標とするようになった。400年ほど前の江戸時代になると、日本式の灯台が建てられるようになった。その頃の灯台は「かがり屋」とか「灯明台」と呼ばれており、石積みの台の上に小屋を建て、その中で木を燃やすしくみのものであった。日本が今のような灯台を建てるようになったのは、1866年、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ国と結んだ江戸条約で、8つの灯台などを建てる約束をしたことが始まりである。1867年(明治2年)に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本ではじめて近代(洋式)灯台が誕生した。1867年、イギリスと大阪条約が結ばれ5つの灯台を建てることが決まり、これら13灯台を「条約灯台」と呼ばれている。それだけ海外からくる船は日本沿岸の灯台を必要としていた。

 当然、洋式灯台の技術は日本にはなかったから、初期の灯台の設計者はほとんど外国人である。イギリスの土木技術者であるリチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府に請われて明治初期の灯台建設を指揮し、在日中26基の灯台を設計し、日本の灯台の父と呼ばれている。その灯台も2004年には国内3,348基、その後レーダーや全地球測位システム(GPS)の発展に伴い、3,125基(2020年/令和2年3月31日現在)まで減った。

 日本一高い灯台は島根県出雲日御碕灯台で、この灯台は日本人が設計、施工したもので、地上44m(水面から63m)である。灯台の明るさはカンデラという光度の単位を使う。1カンデラはろうそく1本の明るさというのが面白い。日御碕灯台の光度は48万カンデラ、光が届く距離は39kmである。大体灯台の光が届く距離は30~40kmである。地球は丸いからいくら明るくても見える距離は水平線までである。水平線までの距離は、約√(2×水面からの高さ×地球の半径6,370km)で計算できるので、約28.3kmである。

 世界の有名な灯台100選は、国際航路標識協会 (IALA) が 1998年 (平成10年)に提唱した「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」のことで、この中に日本国内の 灯台が5基選ばれている。日本の灯台50選は、第50回灯台記念日(11月1日)を記念して海上保安庁が募集し、1998年全国の応募により投票によって選ばれた「あなたが選ぶ日本の灯台50選」である。最近灯台女子なる言葉もあり、100観音とか100名城とかスタンプラリーのように、灯台を巡る旅もあるが、灯台は50選に拘らず、これ以外に見逃せない灯台もある。

 神奈川県三浦半島に剱埼灯台がある。この「剱埼」の読み方について、高校の頃友人たちと議論したことがあった。「ツルギサキ/ツルギザキ」、「ケンザキ」、「ツルギガサキ」が出てきて、意見は圧倒的に「ケンザキ」であったし、確かに「ケンザキスルメ」なるものも売られている。しかし、バス停の地名は「剱崎/ツルギサキ」であり、「ケンザキ」は「ツルギサキ」が言いにくいので生まれた地元の通称であるらしい。個人的に「ツルギガサキ」だが、これは立原正秋の書名で使われており、読んだ人しか出てこない名前であろう。また、「サキ」にも「埼」、「崎」があり、「埼」は海洋に特出した陸地の突端部のことで、「崎」は海洋に特出した山脚部のことであり、岬部分の様態を示しているが、国土地理院では、前身の陸軍陸地測量部が山へんの「崎」を使用していた経緯があるのに対して、海洋情報部は、明治時代の海軍水路部のころから、「埼」を海図に採用してきた経緯から、地図には「崎」、海図には「埼」が使われているようだ。

 灯台は観光地になるかというと、灯台があるというだけでは厳しい。まず、立地が多くは岬の先端で、足の便は悪く、名前を知られたものも多くない。また、夜間灯りを灯すもので、観光時間とも一致しない。近くに温泉やテーマパークがあればその一部として良く人が訪れる灯台もあるし、景勝地に灯台があるということで見に来る人もいるだろう。「参観灯台」というものがある。一般公開されていて上まで上ることができる灯台で、国内に16基ある。当然狭い階段を上っていくことになる。出雲日御碕灯台は163段ある。高所恐怖症の人にとっては展望台にでることさえ怖いくらいで、実際上まで上ったが外に出られなかった人もいたと聞く。山口県の角島灯台に行った折は、強風(風速24m)のため参観中止となっていた。料金も300円でこれは参観料ではなく、寄付金となっている。

 さらに課題は灯台にアクセスする交通機関がある。私は公共交通機関、場合によりタクシー、加えて徒歩である。多くの灯台が辺鄙な場所にあるから、公共交通機関利用ではかなり不便な場所があり、時間的にも制約が多い。やはり自動車、バイクの方が便利はよく、ネットに挙げられているのはほとんど自動車での灯台巡りである。ただし、離島で定期便がないものは自動車でも厳しい。何を使って灯台巡りをするかはそれぞれだろう。 
 個人的には、観光目的や地域協賛のデザイン灯台もあるが、やはり灯台は岬や岸壁にスクッと立つロケット型の白い灯台をイメージする。先日出雲日御碕灯台へ行き、最初に目にしたとき「実に美しい」と思った。灯台はその役割、文化的な価値と、岬の先端に孤高として存在することで美しいと評価されればいいのではないか。灯台巡りもまさにそこにこそ意義と旅愁、ロマンを見出すのではないかと思う。